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100%成立しえたハッピーエンド

2015.04.15(22:57)

指の骨指の骨
(2015/01/30)
高橋 弘希

商品詳細を見る

 

 イヌハル「箱庭物語 海の祈り」
 以上の物語内容に結末をふくめて言及しています。


 3月9日(月)

 会社にいった。


 3月10日(火)

 会社にいった。


 3月11日(水)

 会社にいった。帰って、河出書房新社にいった。


 3月12日(木)

 会社にいった。謎の胃痛におそわれ、会社から逃げかえった。病院にいったら、原因はわかりません、と言われた。血をぬかれた。


 3月13日(金)

 会社をやすんだ。ぬかれた血のよしあしを聞きにいったら、肝臓がよくない、と言われた。


 3月14日(土)

 小説を書いた。


 3月15日(日)

 小説を書いた。


 3月16日(月)

 会社にいった。


 3月17日(火)

 会社にいった。


 3月18日(水)

 会社にいった。


 3月19日(木)

 会社にいった。


 3月20日(金)

 会社にいった。
 友達が、人生で生まれてはじめて救急車にのった、と言っていた。これは救急車を呼んでいいほどの苦痛なのだろうか、と逡巡していたと言っていた。病院で、原因はわかりません、と言われたと言っていた。


 3月21日(土)

 朝おきて、ドトールにいって小説を書いた。それから、モスバーガーにいって小説を書いた。そのあいまに、高橋弘希「指の骨」を12ページまで読んだ。
 わたしたちはおそらくは作家の文章が持つ特徴を普遍的な言葉で語ることはできない。「あたたかい文章」というものは、すくなくともわたしがそう思う文章を書く作家はいるけれど、あのひともそうだし、あのひともそう、ということにしかけっきょくは向かっていかないと思う。


 その年若い白人兵はきょとんとして、穴の縁から顔を出す私の姿を、青い瞳で見つめていた。私は引鉄を引いた。銃弾は若者の白い首の根に減り込み、彼は英語で鳥の鳴き声のように何か喚き、血液の溢れる首筋を掌で押さえたまま、後方へと倒れた。死んだ。西日の草地に黒い血が広がっていく。私はそれを見届けると、再び穴の中へと引き返した。

 
 文意だけをとろうとするのであれば、このいちれんの文章にぽつんとおかれた「死んだ。」という文章は不要となるように思う。「銃弾は若者の白い首の根に減り込み、彼は英語で鳥の鳴き声のように何か喚き、血液の溢れる首筋を掌で押さえたまま、後方へと倒れた。西日の草地に黒い血が広がっていく。」という文章でなまなましさは通常ではつたわるように思う。だから、「死んだ。」という文章は「意味」ではない、とわたしは思う。それは文意をつたえてはいなくて、そのかわりに「なにか」を端的につたえている、そしてその「なにか」だけが重苦しい、過剰な読点でいちいちたちどまりつづけるこの文章におそらくはせつじつさをあたえている。これはたとえだけれど、「死んだ。」という表現の文意ではないものが、文章に流れているように思う。
「死んだ。」というのはいったいなんだろうか。「私」にとって白人兵の死は「死んだ。」と表現できるほどの事実性を持っているんだろうか。そして、白人兵が「死んだ。」ということが、「後方へ倒れた」と「黒い血が広がっていく」というふたつの事実以上に「私」に重要な価値をもたらすんだろうか。けれど、この小説のすくなくともここまでの部分は、その価値をもたらす、という意識のなかで書かれている。


 3月22日(日)

 小説を書いた。


 3月23日(月)

 会社にいった。帰って小説を書いた。


 3月24日(火)

 会社にいった。帰って小説を書いた。


 3月25日(水)

 会社にいった。帰って小説を書いた。


 3月26日(木)

 会社にいった。帰って小説を書いた。


 3月27日(金)

 会社にいった。帰って小説を書いた。


 3月28日(土)

 小説を書いた。


 3月29日(日)

 小説を書いた。


 3月30日(月)

 会社にいった。小説を書いた。


 3月31日(火)

 会社にいった。小説を書いた。


 4月1日(水)

 会社にいった。小説を書いた。


 4月2日(木)

 会社にいった。帰ってイヌハル「箱庭物語 海の祈り」をひさしぶりにやった。

 4月3日(金)

 会社にいった。帰ってイヌハル「箱庭物語 海の祈り」をやった。


 4月4日(土)

 イヌハル「箱庭物語 海の祈り」をやった。
 まえにも書いたかもしれないけれど、批難するというわけではなく、この作品の最大の特徴はハッピーエンドからバットエンドへの作者の恣意的なすりかえにあると思う。100%成立しえたハッピーエンドを「無意味」にすりかえた場所にこのバットエンドは存在していて、その存在過程がこのバットエンドにとてもつよい印象をあたえている。重要なことは、このバットエンドの性質が「100%成立しえたハッピーエンド」の性質をなんら継承していない、ということだと思う。「100%成立しえたハッピーエンド」がすくなくとも物語的に要請されていることを、このゲームをプレイしたひとであればふつうに理解できると思う。「物語的に要請される」ということは物語が直接的でひとつながりの意味を発生させる、ということで、そうであるかぎり、わたしたちが通常の感覚で呼んでいる「物語」は「意味」の代替にすぎない。でも、ほんとうはそうではなく、そうではない「物語」に惹かれることもあるはずで、すくなくとも「箱庭物語」と名づけられたこの「物語」はそういうありかたをしている。このバットエンドにはあきらかに作者の意志が介在していて、そして作者の意志はメタフィクション的な意味においては「物語」を破壊するものとしてあるけれど、このゲームにおいて破壊されているものは「物語」ではなく「意味」なんだと思う。


 4月5日(日)

 イヌハル「箱庭物語 海の祈り」はたんじゅんな構図として「世界対個人」としてあって、けれどそれはRPGではふつうなこととしてあると思う。問題は「世界対個人」が「世界的悪対個人的正義」とおなじではない、ということだと思う。「箱庭としての世界」は世界としての正義があって、そして、結果としてウテルスを殺しているティチェたちもすでに個人的正義としてありえていない。このとき重要になってくるのは、けれどもう「絶対的多数としての世界」と「絶対的少数としての個人」という関係性ということでしかないように思う。このゲームをプレイしてティチェたちがしていることは「世界にたいしての悪」だと認識するひとをふつうの意味で考えることはむずかしい。けれど、それはわたしたちが持ちえる「視点」が「個人」としてしかありえない、ということにのみ理由があるようにも思う。ミールスミールがわたしはこの作品のなかでいちばんいきいきと動いているように思うけれど、それは彼女だけがこの物語のなかで唯一「絶対的多数」としてあることも「絶対的少数」としてあることもまぬがれているからだと思う。
 イヌハル「箱庭物語」をやった。


 4月6日(月)

 会社にいった。イヌハル「箱庭物語」をやった。
「FF7」でバレットたちアバランチは「テロリスト」だけれど、新羅という「世界的悪」とアバランチという「個人的悪」の対立は、すくなくともバレットにはテロ行為として罪のないひとびとを殺してしまっていることへの罪悪感がありながら、「星の危機」というさらにおおきなものによってなかば解消されてしまっている。そして、「星の危機」によって彼らは「個人的な視点」へと回帰している。「星の危機」が回避されることがエアリスという個人へと過不足なくむすびついている。セフィロスという存在は弁証法的存在としてあって、ルーファウスもクラウドも、ある意味ではセフィロスに個人的に救済されている。


 4月7日(火)

 会社にいった。イヌハル「箱庭物語」をやった。


 4月8日(水)

 会社にいった。イヌハル「箱庭物語」をやった。


 4月9日(木)

 会社にいった。イヌハル「箱庭物語」をやった。


 4月10日(金)

 会社にいった。イヌハル「箱庭物語」をやった。
 本人は「自他ともにみとめるクソゲー」というようなことを言っていたけれど、そうでもないように思う。問題はレベル90になっても瞬殺される隠しダンジョンだけれど。


 4月11日(土)

 ねむっていた。


 4月12日(日)

 ねむっていた。


 4月13日(月)

 会社にいった。


 4月14日(火)

 会社にいった。河出書房新社にいった。
 

 4月15日(水)

 会社にいった。ドトールにいって日記を書いた。




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