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感情を欲するという感情

2015.09.20(23:20)

 5月20日(水)

 会社にいった。


 5月21日(木)

 会社にいった。


 5月22日(金)

 会社にいった。


 5月23日(土)

 ねむっていた。


 5月24日(日)

 ふかくねむっていた。


 5月25日(月)

 会社にいった。


 5月26日(火)

 会社にいった。


 5月27日(水)

 会社にいった。


 5月28日(木)

 会社にいった。


 5月29日(金)

 会社にいった。


 5月30日(土)

 ねむっていた。


 5月31日(日)

 ともだちと競馬にいった。快勝した。負けたら生活費がまったくなくなるからいのちがけだった。


 6月1日(月)

 会社にいった。


 6月2日(火)

 会社にいった。

 
 6月3日(水)

 会社にいった。

 
 6月4日(木)

 会社にいった。


 6月5日(金)

 会社にいった。


 6月6日(土)

 ねむっていた。


 6月7日(日)

 さなぎのようだった。


 6月8日(月)

 会社にいった。


 6月9日(火)

 会社にいった。


 6月10日(水)

 会社にいった。


 6月11日(木)

 会社にいった。


 6月12日(金)

 会社にいった。


 6月13日(土)

 ねむっていた。


 6月14日(日)

 友達とSTスポットまでいって山縣太一×大谷能生「海底で履く靴には紐が無い」を見た。海底ではく靴にはひもがないんだなあと思った。


 6月15日(月)

 会社にいった。


 男たちはKを地面に坐らせ、石に凭れかからせ、頭を上向きにのせた。かれらが非常に苦心したにもかかわらず、またかれらの意のとおりにしようとKが努めたにもかかわらず、彼の姿勢は信じられぬぐらい無理のあるものだった。そこで一人の男がもう一人にむかって、Kを横たえる作業をしばらく自分一人に任せてくれと頼んだが、それでも事情はよくならなかった。ついにかれらはKをある状態に置いたが、それでさえこれまでなされた状態のうち一番いいものとは言えなかった。
 ――カフカ/審判


 カフカのこの描写はわたしにはとても簡潔でいて明晰な文章に思えてしまうけれど、それでも、けっきょくのところKがどんな状態におかれたのかこの文章から理解することはわたしたちにはできない。重要なことは、最終的なかたちでさえ不明瞭でありながらそれでもなおこの文章が簡潔さや明晰さを、すくなくともわたしにはつたえるということだと思う。この文章はたしかにある種類のグロテスクなものやぶきみなものをふくんでいるように思えるけれど、でもそれらはたとえばわたしたちが想像するKのかたちからくるものではないように思う。グロテスクだったりぶきみだったりするのは、おそらくはけっきょくKがどんな状態におかれたのかすら描かないでいながらそれを結果として断定してしまっているからで、そしてきっと、そこに描かれていることは「あるものがある」というきわめてたんじゅんな現実性だという気がする。「あるものがある」ということは、その「あるもの」の存在を無条件に断定してしまうことで、たとえわたしたちがKがどんな状態にあるのか曖昧な状態としてしか認識できないでいても、それはもう「あるもの」としてとらえしかないんじゃないかと思う。それは描写がたりていないとかあるはずがないものがあるとかそういう問題以前のきわめて断定的な「ある」というありかたで、わたしたちがおどろくのはただ「あるものがある」という冷徹な事実なのかもしれない、と思う。リアリティ、という言葉が小説だけではなくて創作物全般にたいしてふつうに言われていて、でもそれはたぶん描写のこまかさとかそういうことではなくて、ただ「あるものがある」といういってんにかかわっているように思う。それでも、たいていの場合わたしたちはただそこに「あるものがある」というたんじゅんな事実に自信が持てなくて、そこにたくさんの意味やゆたかな感情を創造しようとしている。わたしにはそれがまちがっていると言う勇気なんてないけれど、それでもそれらの姿勢のうらにはその創作が虚構にすぎない、という意識はあるだろうという気がする。たんじゅんな話として、創作というものをしようとするときの創造過程は、虚構の舞台やひとがあってでもそれだけではだめからそこにたくさんの意味やゆたかな感情で肉づけしていく、というかたちでとらえられるのかもしれない。でもそうやってできあがった舞台やひとはけっきょくは肉づけされた虚構のままなのかもしれなくて、そしてわたしたちがその作品の深さについて語るとき、わたしたちはそうやってつけられた肉の厚さをはかっているだけなのかもしれない、とときどき思う。
 

 6月16日(火)

 会社にいった。
「あるものがある」ということはある種の究極的な断定で、そこにおいて根拠や理由、つまりそれがそこに存在することの意味を問うことに価値はないように思う。だから、というわけではないけれど、わたしは「自分は○○のために生まれてきた」ということにたいしての価値は感じられなくて、それはぎゃくに虚構的なように思う。
 

 6月17日(水)

 会社にいった。
「あるものがある」ということは「そうであるようなものがそうである」ということとはたぶんちがっていて、感情や価値観の絶対化ではない、と思う。絶対的な感情と絶対化された感情はおそらくちがうものとしてあって、感情を信じることと感情の存在を信じることもまたちがうことだと思う。


 6月18日(木)

 会社にいった。


 6月19日(金)

 会社にいった。
 ヴォネガット「ガラパゴスの箱舟」を読んだ。


 6月20日(土)

 舞城王太郎「淵の王」を読んだ。


 6月21日(日)

 夏目漱石「彼岸過迄」を読んだ。


 千代子は広い本堂に坐っている間、不思議に涙の何もでなかった。叔父叔母の顔を見てもこれといって憂に鎖された様子は見えなかった。焼香の時、重子が香を撮んで香炉の裏へ燻るのを間違えて、灰を一撮み取って、抹香の中へ打ち込んだ折には、可笑しくなって吹き出した位である。式が果てから松本と須永と別に一二人棺に附き添って火葬場へ廻ったので、千代子は外のものと一所に又矢来へ帰ってきた。車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しい位悲しかった昨日一昨日の気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀を却って恋しく思った。


 僕は常に考えている。「純粋な感情程清く美くしいものはない。美くしいもの程強いものはない」と。強いものが恐れないのは当り前である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪えられないだろう。その光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。僕はきっとその光の為に射竦められるに極っている。それと同程度或はより以上の輝くものを、返礼として彼女に与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。


 漱石が書いていることはわたしにとってはとてもせつじつなことのように思うけれど、わたしはそれについてはたくさんは書かない。でもそれはたぶん須永が言うようにとてもたんじゅんなことのように思う。
 わたしたちは感情を欲しているし、感情を欲しているということすらもひとつの感情としてあるだろう。そして、感情を欲しているということはわたしたちが求めているその感情よりもはるかに醜く、醜さを通過しないかぎりその感情を手にいれることはできない。
 TS「OtoZ」をやった。


 6月22日(月)

 会社にいった。


 6月23日(火)

 会社にいった。


 6月24日(水)

 会社にいった。


 6月25日(木)

 会社にいった。


 6月26日(金)

 会社にいった。


 6月27日(土)

 TS「OtoZ」をやった。


 6月28日(日)

 TS「OtoZ」をクリアした。もうなんどもやっているんだけれど、ほんとうにいまさら、これ「オズの魔法使い」のパロディなんだと気づいた。
 


 6月29日(月)

 会社にいった。


 6月30日(火)

 会社にいった。


 7月1日(水)

 会社にいった。


 7月2日(木)

 会社にいった。


 7月3日(金)

 会社にいった。


 7月4日(土)

 TS「昴の騎士」をやった。


 7月5日(日)

 TS「昴の騎士」をクリアした。わたしはこれはもう4回くらいやっているけれど、ほんとうにゲームとしてしんそこおもしろいと思う。
 TS「闇鍋企画」がわたしにはわからなくて途中でやめてしまったんだけれど、なんとなく、「闇鍋企画」のようなコンセプトでおもしろいものをつくるのはたぶんむずかしいだろうという気がしている。「魔法少女」にたいして、わたしは「登場人物たちがなにかを考えているから、わたしたちは彼女たちがなにを考えているかわからない」ということを言った。それは、登場人物たちがあらかじめあたえられた設定を踏襲するのではなく、その都度生成されている、という感じをあたえる、ということだと思う。「闇鍋企画」ではたとえばティエラが登場すると、あえて仲間に「毒舌だ」というようなことを言わせる。それはすでに登場人物の生成ではない。「昴の騎士」という作品のなかでティエラ自身がなしとげたことを確認しているだけだ。TSというひとはおそらくは「闇鍋企画」を二次創作というかたちで制作している。そして、たぶんそのことに自覚的なんだろう。だから「闇鍋企画」は物語ではないのだけれど、そういうものをわたしはどううけとめたらいいのかよくわからないままだ。


 7月11日(土)

 エクセシオール・カフェにいってカズオ・イシグロ「忘れられた巨人」を読んだ。そのあとMOVIXで園子温「リアル鬼ごっこ」を見た。全国の女子高生たちが鬼から逃げながらなおぼろぼろに殺されていく話だと思っていたけれど、鬼もいないし、それどころじゃなく鬼ごっこもしていなかった。予告編は鬼ごっこっぽくつくってあるけれど、予告編をつくったひとも、どうしたものかこれ、と思っていたんじゃないかと思う。ほんとう、どうしたものかこれ。


 7月12日(日)

 ドトールにいって前田司郎「グレート生活アドベンチャー」の表題作を読んだ。


 僕がそれでも眠くなって、目を閉じていたら加奈子が言った。
「あのさ、将来に対する不安とかないの?」
「例えば?」僕はよくわからなかったので、加奈子にしゃべらせて、僕も同じだ、と言おうと思った。
「例えばって、例えたら別のものになっちゃうじゃん」
 意味がわからなかった。
「そういうもんなの」
「働く気とかないの?」
「働く気はないよ」
「働かないでどうやって暮らしていくのよ」少し怒っている。
「うん、どうやって暮らしていったらいいのかな?」
「知らないわよ」
「そうか」
「あんたなんでそんなに悩みなく生きられるの?」
「あるよ」
「何よ」
「地球温暖化とか」
 加奈子は黙った。それで、また縫い物を始めた。しばらく続けていたみたいだ、僕は半分眠っていた。
「私、死にたいと思うこともあるよ」
 そんなことを言った。僕は無視するのも悪いと思って一応「なんで?」と訊いた。
 加奈子はながく考えてから「未来が怖い」という意味合いのことを言った。僕は随分スケールのでかい恐怖だと思った。



 このとき「僕」は「僕」自身にも加奈子にも興味を持っていないように見える。「少し怒っている」という文章があるけれど、それは会話文のついでにさらりとつけくわえられた、という程度のもので、「加奈子が怒る」という事象がたんに事象としてしか「僕」にはとらえられていない。「だれかを怒らせる」という行為にはそのだれかを怒らせてしまった、あるいは傷つけてしまったことへの罪悪感とかそれからのやりとりに対する不安な気持ちとかがあるはずだけれど、「僕」にはそういうものがいっさいない。それらの気持ちが人間関係と呼ばれるもののなかで生まれるのであれば、「僕」がこの場面で加奈子にたいしておこっているものはすでに人間関係とは呼べない。


 僕は無視するのも悪いと思って一応「なんで?」と訊いた。


「無視するのも悪い」と思って会話をつづけること、「僕」はそれを加奈子への思いやりととられているように思う。「僕」は「無視するのも悪い」と思って会話をつづけることの本質的な残酷さに目を向けようとはしていない。でも、おおかれすくなかれわたしたちの会話というものはそういうかたちでなりたっていて、それは「だれかを怒らせる」といいうことにたいしての「僕」の気持ちよりもたぶんまだ人間関係的だと思う。重要なことはおそらく「僕」が「僕」として完結していることで、おそらくは「僕」は加奈子が「少し怒っている」ということが自分と関係しているなにかだと思ってはないだろうということで、そして、けっきょくのところ、「無視するのも悪い」と思って会話をつづけることというありかたは、「僕」と加奈子の関係性を無視することでなりたっているように見える。だから、「僕」は加奈子の言葉の意味を問おうとしない。それを問いはじめたあと、けっきょく彼らは彼らの関係性にふれてしまわざるをえないだろう。


「私、死にたいと思うこともあるよ」
 そんなことを言った。僕は無視するのも悪いと思って一応「なんで?」と訊いた。



 この場面の「なんで?」は問いではない。そして加奈子も感覚的にそれを理解していて、その問いを問いとして答えてはいない。彼らは会話を交わしているけれど、それでなんらかの意味や気持ちをたがいに疎通しあっているわけではないように思う。重要なことは、それでも彼らがなにかを疎通しあっているようにだけは見えることだと思う。彼らはでも実際にはなにも疎通しあっているわけじゃないかもしれない。「僕」が考えていること、やっていることはとてもひとりよがりで「僕」のなかで完結しているようにも思えることだけれど、その「『僕』のなかの完結」ですらもなにかと響きあってしまう。というより、おそらくは響きあうことをわたしたちは求めてしまっている。


 7月13日(月)

 会社にいった。


 7月14日(火)

 会社にいった。


 7月15日(水)

 会社にいった。


 7月16日(木)

 会社にいった。


 7月17日(金)

 会社にいった。


 7月18日(土)

 ねむっていた。


 7月19日(日)

 ふぐのようにねむっていた。


 7月20日(月)

 会社にいった。


 7月21日(火)

 会社にいった。


 7月22日(水)

 会社にいった。


 7月23日(木)

 会社にいった。


 7月24日(金)

 会社にいった。


 7月25日(土)

 ねむっていた。


 7月26日(日)

 牛のようにねむっていた。


 7月27日(月)

 会社にいった。


 7月28日(火)

 会社にいった。


 7月29日(水)

 会社にいった。


 7月30日(木)

 会社にいった。


 7月31日(金)

 会社にいった。


 8月1日(土)

 ねむっていた。


 8月2日(日)

 どじょうのようにねむっていた。




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