- 2007-12-26(水)
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僕は前回の記事で青山真治監督は実はチープなのではないか、という話をしました。今回はその話の続きです。そして、この映画に関する話はそのまま芸術全体においてもまったく同じことが言えるのではないか、と僕は思うのです。
美というものがあります。芸術というのはある意味では「美を追求するもの」と定義してしまってかまわないと思うのですが、それ以前に美というものについてすこし考えて見なければならないと思います。
僕が思うのは、美というのもすでに社会的な価値観に染まってしまっていてくぐもってしまっているのではないか、ということです。すでに多様な意味を持てなくなってしまっているのではないか、と。
おそらく、僕らはとても思いこみに弱いような気がします。あるいは、あらゆる価値観とはけっきょくのところ本人の思いこみにすぎないのだ、と言ってしまってもいいように思えます。社会や学校から僕らは「これがきれいなものなんだ」と直接的にも間接的にも言われつづけていて、だんだんとその色に染まってしまいがちです。
恥ずかしい話、たとえば、僕はこのような曲が好きなのです。上がビーチ・ボーイズの『キャロライン・ノー』で下がミレニウムの『語りつくして』という曲です。
しかし、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』でもひとつのテーマになっていたのですが、世の中にはノイズミュージックというものもあります。ノイズミュージックというものが何かまったく知らないのであれなのですが、Wikipedia様によるとこんな具合です。
伝統的な音楽的常識からは楽器と見なされないものを楽器や音源として使用し、楽曲を構成していく音楽。その名前自体がこのジャンルの特徴を簡潔に言い表している。リズムや旋律は完全に無視されるので、当然音響作曲法により構成される。
ノイズミュージックでは、工具や工業製品、電子音、街頭の音、心音や、鳥のさえずりや波の音のような自然界の音などを、楽曲を構成するために利用する一方、それらに加えて叫び声や呟き、過激なアジテーションをもって楽曲を構成するアーティストもいる。時代を重ねていくごとにスタイルが変遷していくのも特徴であり、現代のノイズミュージックでは、それらの音をデータとして採取し、コンピューターを介して加工・混合、あるいはそのまま用いる手法も多用されている。
さて、Wikepedia様にはノイズミュージックをやっている音楽家のリストがあったのですけれど、知っている人がヤニス・クセナキスと暴力温泉芸者(中原昌也さん)とオウテカとマゾンナしかいません。というか、クセナキスってノイズミュージックだったのか。一応、クセナキスの『メタスタシス』をのせておきます(『メタスタシス』はノイズミュージックではないのかもしれませんが)。
『メタスタシス』を聴いても、普通の人も(もちろん僕も)「なんだこりゃ」としか思わないかもしれません。僕らがきれいだと思う音はヴァイオリンやピアノなどで、それはいいのですが、それはある調和やメロディにあわせて使われて初めてきれいだと認識されるのかもしれません。「リズムや旋律は完全に無視される」ノイズミュージックを前にすると、僕らはおそらくそれをそう認識していいのかわからなくなってしまうのです。
絵画でも同じで、たとえばルノワールの『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像』などは誰が見てもきれいと認識できるのでしょうが、ピカソの『ゲルニカ』などを見るとやはり「なんだこりゃ」としか思わないかもしれません。
もちろん、絵画や彫刻の歴史はとても長くそして多様で、現代絵画だの印象主義だの事細かにわかれているらしく、ここでふたつの絵を見せて「はい、片方はきれいですね。でももう片方はよくわからないですね。いったいどういうことなんでしょう」と言ってもあまり意味はないかもしれません。
そろそろ知ったかぶりの話はやめましょう。
「ピカソの絵が美であるかどうか」
これはたぶん、
「ノイズミュージックが美しい音楽であるかどうか」
という問題とほとんど同じような気がします。そして、僕はこれは実はたいした問題ではないような気がするのです。もう「美」というものをここまでひろげれば、それはほとんど「美=文学=映画=絵画=音楽=etc.」となってしまって、ほとんど言葉の価値が失われてしまう(あるいは価値が高まりすぎてしまう)ような気がします。
ノイズミュージックというのは、ノイズ=雑音すらを音楽と見なす、という考えが基底にあるように思えます。僕が思うのは、「僕らは何故美しいと思われている音しか使わないのだろう。そして、僕らは何故美しいと思われているものをつくろうとするのだろう。そしてそして、僕らは何故美しいと思われているものを美しいと思い、美しくないと思われているものを美しいと思わないのだろう」ということです。
これは僕の問題です。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』で青山さんはときどき美しくないものを混入しました。その奇妙さを思うと僕は考えさせられてしまいます。
たぶん、問題は、阿部和重さんが褒めていた(らしい)ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』があんまり楽しめなかったことにあるんだと思います(一応、最後まで見ることはできたのですが……)。



コメント
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翔平さんへ
「美しいもの」というのも難しいですね。
例えば、江國香織や村上春樹の文章は美しいけど、金原ひとみや赤坂真理の文章は汚い、と、そういう認識があるとしたら、それはそれで間違ってはいないですよね。
でも俺は、金原ひとみの文章も赤坂真理の文章も、実はすごく綺麗なんじゃないか、と思うことがあります。
例えば、『アッシュベイビー』はAmazonで「汚い」ってほとんどの人が言ってますけど、「じゃあ汚いものは存在しちゃいけないのか」、ってことだと思います。
汚いからこそ美しくなることもあるだろうし、実際『アッシュベイビー』は綺麗ですよ。
「汚い」が極まって「美しい」に変換されることもあるはずです。
岩井俊二の映画は確かに美しいけど、ものすごく雑に撮った映画も実は綺麗かもしれませんしね。
それは観察者によって変わると思います。だから俺が『アッシュベイビー』をどれほど綺麗だと言っても、例えばキズキさんはそう思わないかもしれませんし(笑)
本当に難しいです。見る人(つーか、見方?)によって「美しさ」は変わってくると思います。
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この記事を書く前はおもしろいことが書けそうだな、と思っていたのですが、あんまりおもしろくなかったですね。まあ、どうでもいいんですけれど。
金原さんとか赤坂さんとかの文章が汚い、というのは、社会的な美という価値観からするとまったくその通りです。金原さんの文章をきれいだ、と言うのは、社会(社会って誰だよ?という話をしたほうがいいんですが)の言う美と個人の美がずれている、というか感覚がちがう、ということですね。そして、感覚なんかずれていてあたりまえなのに、ほとんどの場合ある種の矯正がきいてしまっていて、金原さんみたいなのを読むと「なんじゃこりゃ。汚い。下品。死ね」とかなるわけです。
美しい、というのは、「いったいどの要素が僕らに美しいと思わせるのか?」ということと等しいはずです。
タルコフスキーの『ノスタルジア』なんか誰が見たってきれいに決まっているけれど、ほとんどの人はあの映画を見たって「眠くなる」としか言わない気がします(確かに眠くなるんですけれど、でもおもしろいじゃないかと思います)。
映像の美、音の美が、直接その作品の美(おもしろさ)につながるわけじゃないですからね。やっぱり難しい問題ですよ。