- 2007-12-30(日)
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オタクコミュニスト超絶マンガ評論
- 紙屋 高雪、きあ
- 築地書館
- 1890円
書評/サブカルチャー

『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』という本を『本が好き!』様からいただいて書評を書くことになりました。
著者である紙屋さんはネットでマンガについての評論を書いており、この本はそのなかからピックアップしてまとめたものらしいです。
最初の『よつばと』と『GUNSLINGER GIRL』についての評論があまりおもしろくなかったのでどうしようかと思ったのですが、だんだんおもしろくなってくるので安心しました。『よつばと』については「夏休み」という言葉を使う以上宮台真治さんや押井守さんの『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』にふれなくてよかったのだろうか、などと思いました。また、『GUNSLINGER GIRL』では『エヴァンゲリオン』にふれなくてよかったのかなあと思いましたが、これはどうでもいいことです。
さて、紙屋さんはあとがきでこんなことを書いています。
漫画を多少とも読んでいるぼくの友人が、ぼくが漫画感想サイトをやっているのをどこからか聞きつけてサイトにやってくるのだが、知らない漫画のタイトルがざーっと並んでいるのを見て、漫画の評論については何も見ずに帰っていってしまうことが多い。読みもしない漫画には関心がもてないのだ。
僕も一応このブログで個々の本について書評を書いているのだけれど、それを読んでいただいているのかどうかはよくわからないのです。だいたい、僕は一応本なんてぜんぜん読まない人を対象として文章を書きたいと思っているのですが、とりあげられている作家などは本なんてぜんぜん読まない人にはまったく無縁の作家ばかりのような気がします。
だいたい、僕らは知らない小説の書評なんて読みたくないのです。僕らはそんなに暇ではないのです。
紙屋さんは続けてこう言います。
だから、この評論集は「読者はその漫画を読んでいないのに、評論としては面白く読める」ことを目標にしている。
では、書評というのはいかに書かれるべきか、という問題にはぱっと考えつく限りでふたつの方法論があります。ひとつはストーリーや展開をていねいに解説してそれにそってそのおもしろいところを解説していくやりかたです。もうひとつは、ストーリーなどの中身にはほとんどふれず普遍的なものを書いていくやりかたです。
僕は、いつも書評を書きはするもののその内容についてはあまりふれません。たとえば、ストーリーなどはほとんど書きません。それは、書いているあいだにとてつもない絶望感に襲われて書けないからであり、ストーリーなんてろくすっぽ覚えていないことが多々あるからです。
僕が目指しているのは、だいたいにおいて後者のやりかたであり、ですから正直なところ「書評〜」とタイトルをつけて記事も書きたくないのです(とか言いながら、ときどき思わず書いてしまうのですが)。
ものを語るには、語る場というものを持たなくてはいけないと思っています。それは物理的な場所ではなく、自らの立場表明のひとつです。紙屋さんはコミュニストですので、漫画について語りながら政治などについても語るのですが、僕は政治についてそれほど興味もないのであまり語りません。
しかし、もし政治を語るのであれば、僕はそれを文学(芸術)の立場から語るだろうと思えるのです。それは、僕が言葉というものについて教えられたのが文学だからであり、おそらく文学としてしか政治を語れないように思えるからです。そして、僕はそれをそれほど間違っているとは思わないのです。政治について政治の立場から語るのはほかの人がやってくれると思います。そして、政治というものは多様に語られるべきものだと思うからです。
よく思うのですが、政治を語る人間は政治を語る言葉をどこで覚えるのでしょうか。その自覚や思考なくして、本当に政治を語れるのでしょうか。
語る場というのは、「作品の内部から語る」と「作品の外部から語る」という区分けもできると思います。たとえば、『エヴァンゲリオン』に対して、大塚英志さんは「オタク的な視聴者に対する批判を含んでいる」と評して、小説家の滝本竜彦さんは「あんな美少女たちに囲まれて最後まで『逃げる』という選択をしたシンジはすごい」と言いました。前者は作品の外部から、後者は内部から語られているように僕には思えます。そして、それはどっちもが刺激的な指摘なのです。
実作者による批評と批評家による批評という区分けもあります。これはどちらがより優れているとか、そういう問題ではないのです。そんなことはどうでもいいのです。肝心なのは、誰が何を言うかという問題だけであり、その両方が並存していく形がいちばん望ましいのです。
紙屋さんは『はじめに』の項で、自身のマンガを語る上での立場(というか方法論)を表明しています。マンガを社会意識としての反映として、マンガを語るのではなくマンガで語る、というスタンスです。
もちろん、どう語るのかは紙屋さんの自由なのですが、僕はこのスタンスにははっきり反対をしています。紙屋さんが楽しみながらも不満を持った『BSマンガ夜話』の、マンガをマンガ本来としての価値として語る、そのやりかたを支持します。
というか、この分けかたは微妙で、作品というのはその社会意識の反映を免れては存在できません。必ず何がしかの社会意識を含みます。そして、それはわるいことでもなんでもないのです。僕もときに社会意識について語りますが、それはその作品が社会意識の反映としてではなく社会意識を一部として確実にとりこんでいる上で語りたいと思うのです。
この差異は「言葉の問題」というだけかもしれません。しかし、僕は言葉の問題にこだわってみたいと思うのです。
だんだん矛盾してきましたので、これから、なるべく前の文章をかえりみないようにしたいと思います。
マンガというのは極めて優れた表現媒体でありながら、おそらく小説ほどには批評がありません。そして、ゲームというのはもっと悲惨な状況です。
しかし、ときに思うのは、「なんでマンガならマンガという形式を用いて批評をしないのか」ということです。批評というのは、何故か決まって文字を用いて行われるのです。僕にはそれがよくわからないのです。マンガならマンガで、映画なら映画で、音楽なら音楽で、その作品形態にあわせた媒体で批評するというのが真っ当な批評のありかただと思うのです。でも、何故か僕らはマンガについて平気で文章で批評し、あたりまえの顔をしてにやにや笑っているのです。そのちぐはぐな状況は何故か隠蔽され、僕らの目には見えない問題として無視されているのです。
マンガというのは文章という檻のなかでしか何かを表現できないような貧弱なものではないはずです。
『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』の最後のほうは政治の話になっていきます。それもおもしろかったのです。思ったのは、「自由」という言葉の使いかたがまちがっているのかもしれない、ということです。言葉の使いかたに違和を覚えることはたくさんあって、ときどき憤慨します。言葉の持つ多様性はけっこうなのですが、しかし、その多様性に目を向けるということはなかなかできず、僕らはつい社会的に一意に決まってしまう言葉の意味だけを信じてしまうのです。たとえば、以前にも言いましたが、政治で使われる「対話」という言葉があります。しかし、ほとんどの場合その言葉は背景に圧力やテロルというものを備えて使われます。北朝鮮がらみの問題で「対話か圧力」かということが散々言われていたようですが、僕には「対話と圧力」を並べた時点で対話は対話としての意味を失ってしまうと思えるのです。誰もこぶしをふりあげてこちらをにらんでいる人と話なんてしたくないからです。
「自由」という言葉に関してはほぼ同じです。ものすごくシンプルな例ですいませんが(僕の頭だとこれが限界です)、郊外に大型のデパートみたいなのが進出して地元の商店街がつぶれる、みたいなことはよく聞かれます。そのとき、大型店は郊外にその場所に店を開く自由を与えられるわけですが(規制みたいのがある場合もあるらしい)、同時にほかの店が潰れちゃっていもいいよみたいな負の自由さをも保証してしまうわけです。自由という言葉が使われるとき、だいたいメリット的なことしか語られないのです。経済的な自由競争を認められる時点で脱落者がでるのがわかりきっているのですが、「自由競争」の自由には脱落者を救済しない自由ということを含んでしまっているように思えます。いや、含むのはいいのですが、含んでいるのだったらきちんとそれを表明しなくてはならないと思うのです。
それにしても、仮にこの本に書いてあることを鵜呑みにして考えてみると、ワーキングプアみたいな問題は誰が見てもおかしいとわかるのに、どうして解決されないんでしょうか。大企業の利益が伸びたというのは正社員が削減されて派遣が増えていることに直接の理由を負うのなら、誰が見たっておかしいとわかるのに、どうして解決されないんでしょうか。社員をリストラした会社の株価が上がるというおそらくの事実に、「何かおかしいんじゃない」と感じない人はいないでしょう。日本全体の景気の向上が日本人全員の幸福につながるわけがないのは誰でもわかることです。成果主義というものが賃金だけに焦点をあてた視野の狭い考えであるという主張には僕も同意できました。
うーん、こういったいろいろなことは本当に意味がわからないのですが、それは僕だけですか。
以下、ぜんぜん関係ない話が続きます。
AVEXなど、商業主義的な動きを極端に見せると、よく非難されることがあります。僕みたいな人間は基本的に商業主義的なものをきらっています。
「お客様は神様だ」
という言葉があります。最近思ったことなのですが、これは絶対におかしいのです。お客様は神様なわけがないのです。というか、この言葉はお客を別の次元に隔離しておこう、という思惑があるようにしか思えないのです。そして、客を神様として隔離したことところに「システム」というものがはいりこんでくるのです。
たとえば、CDを貸す、ということに着目して考えてみます。TSUTAYAなどではきちんと期日が決まっていて、それまでに返さなかったら法外な延滞金がとられます。で、たとえば友達にCDを貸すとき、期日を決めることはあんまりないように思えます。もし仮に「いついつまでに返して」と期日を決め、それまでに返さなかったとしても、貸した人は怒るかもしれませんがお金を請求することは(たぶん)ないと思います。ここにシステムはありません。
これは極端な例で、システムを導入しないとTSUTAYAなどはとてもやっていられないと思います。延滞金がなかったとしたら、客はCDを返さないかもしれません。しかし、それは客と店というシステムで割り切られた冷めた関係があるからの話で、客が店(の経営者)と友達だったとしたら、たぶん客はCDを返すと思うのです。
いや、なんかへんな話になってきました。
べつの例にします。たとえば、「一部の農家の人は自分のつくった野菜や果物は食べない。何故なら農薬まみれだからだ」とか、「某チェーン店でアルバイトをするとその店の物を二度と食べる気にはなれない」みたいな話はたくさん聞きます。
それが事実だと仮定して話をしてみます。
しかし、一部の農家の人が自分のつくった食べ物を買っていく人間が友達だけだったら、農薬まみれにはしないはずです。チェーン店の話も同じです。あるいは、賞味期限切れの材料を使う、という話もそうです。僕らは、おそらく、神様という別次元の存在に対しては平気で賞味期限切れのものを売りますが(何故なら自分たちには関係ない問題だからです)、友達に対してはそんなものを売らないと思うのです。
だいたいはシステムの話です。そして、システムを越えて客からのクレームや客との世間話が発生したときだけ、経営側はリアルになれるのではないでしょうか。
強引でした。この話はだめでした。やっぱり知らないことは書くものじゃないと思いました。


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