- 2008-02-09(土)
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ルシール・アザリロヴィック監督の『エコール』を見ました。
この映画では、ヒエラルキーのトップに少女たちが君臨しています。しかし、不思議なのは、そこから何も生みだされないことであり、何も始まらないことです。ですから、この映画は終わらないのです。
たとえば、ここにでてくる少女たちは厳密な意味で何かをしゃべっているわけではないのです。僕の見たところ、少女たちは、この映画では何もしゃべれなかったのです。この映画では、たとえば少女や先生がでてくるたびに「私は○○よ」といちいち名前を言うのです。そして、少女たちが話すことと言ったら、「いちばん年下の子は赤いリボンをつけて、年上の子は紫のリボンをつけるのよ」とか「きちんと歩道に沿って歩くのよ」とか、この学校の(というか世界の)規則ばかりなのです。規則というのは、つまり、この映画を撮る上での設定のことです。ですから、少女たちがしゃべっているのはメタなことばかりであり、少女たちがしゃべっているのは厳密な意味でのリアルな事柄についてではないのです。
僕は昔、『エコール』によく似た『灰羽連盟』というアニメを見たことがあります。『灰羽連盟』のつまらなさと、『エコール』のつまらなさというのは、おそらく同じ問題なのです。『エコール』も『灰羽連盟』もファンタジーです。しかし、何故か、僕らはファンタジーとなるとある種の設定ばかりを重視してしまう傾向にあるのです。
たとえば、僕はライトノベルに関して、「設定はとても秀逸だなあ」と思うのです。しかしながら、そういうものを読んでもつまらないことが多いのもひとつの事実なのです。というのも、多くのライトノベルの作家たちは「おもしろい設定」と「おもしろいキャラクタ」をつくれれば、おもしろいライトノベルをつくれると思っているのです。だから、彼らは「おもしろい設定」と「おもしろいキャラクタ」をどうやって使うかということまで頭がまわらないのです。東浩紀さんが『動物化するポストモダン』で書いたように、それらは決して有機的なつながりを持てないのです。
僕には、こう言ってよければ、「これは厳密な意味での映画ではない」と思えました。たとえば、僕はこれを絵本や写真集としてだしたらどうだろうと思うのです。現に、何故かこの映画ではカメラがほとんど動かないのです。カメラは、ある一定のポジションから微動だにせず少女たちをうつしつづけるだけなのです。
この映画には少女しか存在しません。少女だけしかいないから、彼女たちは会話ができないのです。何故なら、少女しかいなかったら、少女たちは誰に何を話せばいいかわからないからです。もっと正しく言うと、この映画には人間が存在しないのです。少女というのは少女である前に人間であるべきです。でも、この映画にでてくる少女たちは人間である前に少女であるべきとされています。だから、こう言ってよければ、この『エコール』という映画は、「できのわるいライトノベル」なのです。
映画冒頭で鏡を割るシーン、そして夢から覚めてベッドから起きあがるシーンなど、きわめて不出来なシーンもあります。僕は、おそらく、こういうシーンを何よりもまず削るべきだと思うのです。
僕はウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』をずいぶん前に読みました。ナボコフの『ロリータ』が興味深いのは、ロリータ・コンプレックスに対して自己批判的に書かれている点です。『ロリータ』の主人公のハンバートは自分がどういう人間かよく知っていて、また、ややシニカルに自分を語ります。つまり、『ロリータ』には少女とそれを愛でる男性のあいだになんらかの関係があったのです。でも、『エコール』にはそれがないのです。だから、『エコール』は消費物にしかなれないのです。僕らは『エコール』のなかの少女たちと、実はどんな関係も結べはしないのです。だから、僕らはしばしば、『エコール』のなかの少女たちに乱暴な欲望を向けるしかなくなるのです……。
岩井俊二監督の『花とアリス』も言ってみれば、『エコール』に近いのです。『花とアリス』は、女の子の友情の物語でも青春の物語でもありません。あれはファンタジーなのです。だから、どちらかと言えば、『E.T.』の隣とかに置いておく作品なのです。
『花とアリス』という映画を僕はけっこう好きなのですが、しかし、『花とアリス』は蒼井優が「ばきゅーん」だの「ずどーん」だの言っていれば成立する映画です。『エコール』では蒼井優がいないし、「ばきゅーん」とも言えないので、かわりにフラフープをまわしたり側転をしたりブランコにのっていたりするわけです。『エコール』がやや古典的であることを除けば、だから、このふたつの映画は同じなのです。
『花とアリス』は、「ばきゅーん」で成立している映画です。それ以上でもそれ以下でもないのです。でも、ゴダールも言っていることですが、それ以上でもそれ以下でもないということは、絶対的な力を持っているということです。ですから、僕らは『花とアリス』に対して何も言えないのです。「きもい」と言うことはできます。しかし、「きもい」という言葉はあの映画に対しての批判にはならないのです。僕らは『花とアリス』に「きもい」と言えます。でもそれだけです。「きもい」と言ったあとは、口をつぐむしかないのです……。
僕にはよくわからないのです。というか、僕はたとえば、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』のアナ・トレントのほうが好きです。何故なら、アナ・トレントは映画のなかでもおそらく人間だったからです。だから、こう言ってよければ、『エコール』のような古典的な作品は、やはりつくるべきではないのです……。


コメント
Re:映画評 ルシール・アザリロヴィック/エコール
ところで今回の記事とはまったく関係のないことですが一つ質問をさせて下さい。
キズキさんのアマゾンレビューをいくつか読ませていただきましたが、作品を星の数で評価する場合、純文学作品は純文学作品として、エンタメはエンタメとして評価していると、そう考えてもいいですか?
ライトノベル作品などの評価もされているようですが、あれはライトノベルとしては星が五つ、のように評価しているのでしょうか?それともジャンルなど関係なしに評価をされているのでしょうか。
少し気になったので、よろしければお聞かせください。読み直してみて、少し挑戦的な文章になっていまったような気がするのですが、そのような意図はないのであしからず。
名無しさんへ
アマゾンのレビューでは、僕は一応ジャンルなど関係なしに評価していたつもりです。ライトノベルの、たとえば秋山瑞人とかに僕は星5つをつけていると思いますが、だからあれは星4つの純文学作品よりも作品としておもしろいわけです。
僕は「これはエンタメだからこういう読みかたをして、こういう部分を楽しもう」という器用な読みかたはできません。
「○○という作品はエンタメとしてはおもしろい」という評価をよく見かけますが、僕はそういうことは言わないほうがいいと思っています。その言葉は「おれは純文学を読めるけれど、エンタメという形式が存在するのを認めるぐらい心が広いよ。でも、エンタメよりも純文学のほうが高尚だしおもしろいよね」と言うのと同じことだと思えるからです。
アマゾンのレビューは過去に書いたものです。そのとき褒めたものでも今考えれば「たいしておもしろくないんじゃないか」と思う作品はたくさんあります。もちろん、その反対もあります。
というか、たとえば僕はアマゾンのレビューでサルトルの『水いらず』に星3つだか4つだかをつけています。でも、僕はあれに星1つをつけるべきでした。何故なら、ぜんぜんおもしろくなかったからです。
でも僕は「こんな偉大な作品をぜんぜん読めないと思われたくない」などと馬鹿なことを考えて、無理やり星3つとか4つをつけました。
だから、あれは嘘なわけです。同じように、今も嘘をつきつづけているわけです。できるだけつきたくないとは思いますが。
僕のほうもすこし挑戦的な文章になってしまっているように見えるかもしれませんが、そういう意図は、本当に、まったくないです。
管理人のみ閲覧できます
Re:映画評 ルシール・アザリロヴィック/エコール
書けば書くほどわからなくなる、とおっしゃっていれば、それはあたりまえだと思います。高橋源一郎なら「ブラボー!」と言うでしょう。「あなたはもっとも正しい道を進んでいます!」と言うでしょう。
小説というのは、僕の経験では、読めば読むほどわからなくなるものです。正確に言えば、読めば読むほど「自分が何もわかっていない」ということがわかってくるものです。ですから、ずいぶん不健康なものです。書く上でもそれは同じです。
でも、出発点はそこにしかないと思っています。「自分が何もわかっていない」ことすらわかっていなければ、これから何かがわかるなんてことはありえませんから。
読んだり書いたりすればするほど慣れて読みやすくなったり書きやすくなったりするのは、つまり、幻想です。というか、慣れちゃいけないわけです。慣れたら終わりです。慣れたらなんにも読めないし、書けません。
読書経験がないならこれから読めばいいだけですが、読書自体が苦痛というのは深刻です。それなら何かを書くのも苦痛ではないかと思ってしまいます。
純文学でもエンタメでもライトノベルでも、好きなものを読んだらいいと思います。というか、僕の考えでは、やはり小説を読まなければ書くことはできないからです。
小説とは始める敷居が低いものだと思っています。映画を撮るにはカメラやほかの人間が必要で、音楽については楽器の練習をしなくてはいけません。マンガは絵の練習をしなくちゃいけません。
でも小説はそうじゃありません。パソコンか紙・鉛筆があれば書けます。
でも、そういうのは……いえ、つまり、映画が好きなら映画をするべきで、音楽が好きなら音楽をするべきで、演劇が好きなら演劇をするべきで、スポーツが好きならスポーツをするべきだと僕は思います。
たぶん、問題は小説に何を求めるかということです。(ひとつの方向性として)ケータイ小説やネット上にありふれている小説みたいなものを書きたいならば、カラオケ化という言葉は無視をしてよいと思います。上で僕が言ったこと(敷居うんぬん)も問われません。
だから、まあ……でも、そろそろやめましょう。いろいろ書きすぎました。お気を悪くしたらすみません。
管理人のみ閲覧できます
Re:映画評 ルシール・アザリロヴィック/エコール
こちらこそ読んでくださってありがとうございます。