- 2008-02-10(日)
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『リルケ詩集』を読みました。僕はこのなかの『オルフォイスへのソネット』の次の部分を読んで、「もう、こんな詩は現代人には書けないだろうなあ」と強く思ったのです。
ゆたかな林檎よ 梨とバナナよ
スグリよ……これらはみんな口のなかへ
死と生を語りかける……ほのかに私はそれを感じる……
子供の顔からそれを読みとるがいい
彼が果物を味わうときに。それは遠いところから来るのだ
君たちの口のなかがおもむろに名状しがたくなりはしないだろうか?
いつもは言葉があったところに 新しい発見が流れる
果肉のなかからふいに解き放たれたものが
僕はすこし前に、自然について考えたことがあります。というのは、純粋な自然というのは果たして僕らのまわりに存在するのだろうか、という疑問です。たとえば、釧路湿原などの自然保護区は人間の手で、つまり人工的に自然であることを強制されているわけです。だから、それはある意味ではピュアな自然ではないのです。もっとも、だからと言って保護をやめて人間が開発を進めても、それはやはり自然ではないのです。
自然・人工というのは、すでに人間が意識して考えた言葉です。僕らは人間である以上、極めて人工的にしかものを考えられないのです。
おそらく、自然・人工というのは、現在、人間が主観となって考えられています。だから、もし人間が滅んだあと都市だけが残ったとして、その都市はいくら人工的な産物であろうが、人間がいないのならば、それはすでに自然であるはずです。
人間が自然を発見してしまった以上、すでに自然は自然たりえないのです。宇宙の果てとか、そういう、人間が未だ知っていない部分にしか、自然というものはないのかもしれないのです……。
『日本語の外へ』という本のなかで、片岡義男さんはこう言っています。
働く人としての大衆は、消費者としての大衆が消費出来るものしか作れない。消費者としての大衆は、働く人としての大衆が作れるものしか、消費の対象にすることが出来ない。
僕は、これを読んでそれなりにショックを受けたわけです。思えば僕も大衆である以上、あらゆる物事を消費物としか見ることができないのです。つまり、ある欲しいものがあるとして、僕らはそれを手に入れるか手に入れないかの選択は、その値段と自分の財布の中身で決まるのです。ですから、こういうことは、実は、いくらかおかしいわけです。
片岡義男さんの言っていることは「経済」ということです。不思議なのは、林檎やバナナひとつひとつに値段がついていることです。でも、僕らはそれについてちっとも不自然だと感じないのです。だから、それは「生物(いのち)」であるとともに、「人間の食べ物」であり、また「消費物」でしかないのです。
映画というものも今や消費物です。映画というのは一般的にお金がかかるものですが、フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールは「そうじゃない」と言います。「金のかかる映画も金のかからない映画もあるというだけの話だ」と言います。現に、「きみたちは10ドルあれば映画をつくれる」と言います。
『ゴダール・映画史』にありましたが、不思議なのは、ある地位にいる俳優たちは、その人たちをカメラの前に立たせることだけで莫大なお金がかかるわけです。でも、こういったことはやはりずいぶん不思議なことなのです。もし俳優たちが演技をしてくれれば僕らはそれに対してお金を払うこともできますが、カメラの前に立つだけでお金を要求されれば、僕らはやはり困ってしまうわけです。つまり、こう言ってよければ、俳優の仕事というのは演技することではなくてカメラの前に立つことなのです。
でも、もっと不思議なのは、僕らが現にカメラの前に立たせるためだけにお金を支払っているということです。しかも、それに対してちっとも不思議なことだと思わないというのもまた、奇妙なことです。
だから、たぶん僕らはリルケのような詩はもう書けないのです。それは現代の人がリルケのような詩を書くことを要請されていないというのももちろんですが、たとえ要請されても、書けるわけがないのです。
人間というのは、僕の考えでは、進化しているのではなくて、変化しているというだけなのです。進化したのは科学だけで、というか、人間は何故か科学をうまく扱うことができません。僕らはときどき何を思ってか爆弾とか戦車とかをつくってしまうのです。だから、人間というのは、たぶん変化しているだけなのです……。



コメント
Re:書評 リルケ/リルケ詩集
nanasiさんへ
ありがとうございます。訂正しておきます。