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チェルフィッチュ 『フリータイム』

2008.03.17(00:15)

 彼は六本木までチェルフィッチュの『フリータイム』を見に行きそこでフランス映画祭が行われていることをたまたま知った。早速当日券を買おうと思ったらやっぱり売り切れだったのでしかたなくコーエン兄弟監督、コーマック・マッカーシー原作の『ノーカントリー』を見た。実に六年ぶりに映画館での映画鑑賞だったので彼は調子にのってポップコーンなどを買ってしまい、そのあまりに量の多いポップコーンを食べきるのに必死であまり映画をちゃんと見ることができなかった。『ノーカントリー』はそんなにわるくなかった。
 彼は森美術館に行っていろいろと見てきた。ツァオ・フェイというアーティストの映像作品があって、工場のなかで天使の扮装をした女の子がバレエを踊っていた。でも工場のなかの労働者は誰も彼女の踊りを見ていなかった。彼女を無視していた。工場の労働者はじっと画面の外の彼を見た。でも彼はその労働者たちに何か応えてあげることはできなかった。何故なら労働者たちも彼もいろんなことで忙しかったからだ。だから彼らはお互いに見つめあい、そして別れるしかなかった。

 チェルフィッチュの『フリータイム』は前衛芸術だった。こういう演劇を見ると彼にはいろんなことがわからなくなった。チェルフィッチュというのは彼が認識する演技ということを一切していなかった。彼らはただへんな動きをたんたんとしていただけだ。そして「ファミレスのなかのある状況」をたんたんと、何度もくりかえして話していただけだ。問題は演劇というものの定義だった。そういえば、彼は何故役者が演劇のなかで演技をしなくてはならないのかわからなかった。彼は何故役者それぞれにある決まった役割があたえられているのかわからなかった。彼は何故演劇のなかであるストーリーが展開されるのかわからなかった。彼は何故演劇のなかで役者が同じことを何度も何度も言わないのかわからなかった。
『フリータイム』というのはそういう意味で彼が知っている演劇というものととても乖離していた。役者の演技と話の筋は乖離していた。『フリータイム』と彼ら客は乖離していた。その乖離のなかで、客とチェルフィッチュは何かおおきな共有を得ていた。その共有が何によって生みだされるのか、彼には見当もつかない。しかし、彼はそれでもその共有を生みだしたものにこう名づけてもいいような気がした。「それは『自由』だ」と。
『フリータイム』には時間的な広がりはまったく存在しなかった。それはある種の「状況」でしかなかった。役者たちは徹頭徹尾「状況」についてしか語らなかった。だから、『フリータイム』はこう言いかえれば「状況が表現へと変わる瞬間」だったにちがいない。
『フリータイム』には終わりも始まりもなかった。だから、『フリータイム』には演劇か非演劇かという区別すらなかった。役者たちは『フリータイム』を始めるときに「これから『フリータイム』を始めるんですけどぉ」と話さなくてはいけなかったし、『フリータイム』を終わらせるときには「これで『フリータイム』を終わりにします」と話さなくはいけなかった。通常の演劇ではそんなことはいちいち言わなくてもわかるので、言わない。『フリータイム』では演劇と始まりと終わりが区別されていないので、そう言わなくてはいけなかったのだ。それさえなかったら、客は、どこで帰ればいいのかわからなかったにちがいない。いや、そうではない。客は、彼は、『フリータイム』を最初から最後まで見ないで途中で帰ればよかったのだ。「もうわかったよ!」と上演中に怒鳴り、椅子を蹴り倒し、とっとと帰るべきだったのだ。それが彼ができる『フリータイム』の唯一正しい見方だったのにちがいない。しかし彼はとても臆病なのでもちろんそんなことはできなかった。
『フリータイム』は朝仕事前に三十分ファミレスで自分個人のフリータイムを過ごす女の話だった。女はその三十分の時間がもっと長く一時間、一時間半あったらいいと思っているようだった。人はそれに対して「じゃあ一時間早く起きたら?」と言う。彼も実はそういうことばかり言っていた。でも、彼は同時にぜんぜんそんな問題ではないことを知っていた。女が「あと一時間の時間が欲しい」と言うことと、女に対して「一時間早く起きたら?」と言うことは論理的に正しい結びつきを得てはいるが、その実、限りない断絶を起こしていた。そして、たとえば彼のような愚か者はその断絶に気づかないままに平気で「一時間早く起きたら?」などと言うのだ。
 彼はまったく頭がおかしい。彼はまったくそんなことを言うべきではない。三十分のフリータイムを永遠に変えるために、彼はそんな愚かなことを言うべきではないのだ。

 彼は追記をしようと思った。
 チェルフィッチュの役者たちのしゃべりかたについてだ。しかしそんなことはもう高橋源一郎が書いていた。彼は書くのをやめた。彼はしかしチェルフィッチュを見て、いかに「しゃべる」ことと小説の台詞が乖離しているかを知った。




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