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通過してしまったもの

2008.04.01(10:00)

Quarternote 2nd-THE BEST OF ODANI MISAKO 1996-2003-Quarternote 2nd-THE BEST OF ODANI MISAKO 1996-2003-
(2007/03/07)
小谷美紗子

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 「○○好き」(○○には、映画とか小説とか音楽とか、あるいはそれにまつわる固有名詞が入ると思ってくれれば)ということに関して、いろいろ考えてみたことがある。
 小説を常日頃読んでいる人というのはたぶんすくないけれど、映画を見ている人というのはけっこういるんだと思う。でも、映画を見ている人でも「あんまり映画好きとは思えないなあ」と思うことがよくあって、それは、その人が対象を「通過してしまっている」と感じられるからだと思う。
 あるものごとを通過してしまうと、僕らはそのものごとに対して「なつかしいなあ」としか言えなくなってしまう。テレビで「懐メロ特集」とか「懐かしのアニメ特集」とかをやると、多くの人たちは「なつかしいなあ」と口にこぼす。でも、それはもうそのアニメや音楽がその人にとって「過去のもの」つまり「通過してしまったもの」としてしかとらえられていないんじゃないか、とときどき思ってしまう。
 
 こういうことはとても複雑な問題で、さまざまなことが関連しあうと思う。僕の年代でも、「中学生の頃にビートルズにはまっていた」という人はけっこういる。でも、そういう人たちは何故か今ビートルズを聴いてはいなくて、たとえば僕が聴いていても「なつかしい」以上の関心を示されることがあまりない。
 最近、村上春樹の新訳によるカポーティの『ティファニーで朝食を』が出版されて話題になっている。この本に対して、「なつかしい。昔(おそらく新潮文庫で)読んだ『ティファニーで朝食を』が村上春樹の新訳で読めるなんて、感慨深い」みたいな反応がちらほら見えた。こういうことを読むと、僕は「たぶん、この人は日頃からあんまり小説をせっせと読んでいるわけではないだろう」とつい思ってしまうのだけれど、これは、ただの僕のいやらしい偏見かもしれない。

 基本的に僕はベストアルバムというものを忌避していて、よっぽどのことがないかぎり聴かないのだけれど、小谷美紗子が二枚目のベストアルバムをだしたときのコメントが強烈で、よく覚えている。

 どの曲も、私にとって過去のものではない。

 スタイルを変え、最近はニューアルバムをだすたびに「これは最高傑作だ」とかなんとか自分を褒めている小谷美紗子だけれど、その一方でこういうことを言ったことに、いくらか衝撃を受けた。

 新しい作品を読むたびに「この作品は、たとえばカポーティのあの作品と比べてどうなんだろう」と思っているうちは、カポーティじたいを読んだのが何年前であっても、カポーティは過去のものにはならないと思う。外部に流れる時間というのは外部が規定するけれど、僕らの内部に流れている時間は僕らの意識によって決められる。
 郷愁というものの本質は忘却だと思う。僕らは、すでに忘れさってしまったものにしかノスタルジーを感じられないのだと思う。

「なつかしいなあ」と僕らが口にだすとき、だいたいの場合、その対象に対してあまり興味を持っていなかったりする。それらはすべて忘れさられてしまったものだから。

「なつかしいなあ」と誰かが口にするとき、僕はひどく寂しくなる。特に、その対象が今僕がとても興味を持っているものだったとしたら。

 僕も多くのものを通過してしまった。通過してしまったものに対し、いつのまにか冷淡な態度しかとれなくなってしまっている。そのことに対して、ときどき「すまない」と思う。僕は今、たとえばBUMP OF CHICKENやMr.Childrenを聴いても「なつかしいなあ」としか言えないし、実際、言いもしただろう。でもそのときにつらい思いをするのは忘れてしまった僕じゃなくて、まわりにいる誰かに決まっている。






コメント
この記事、すごくいいと思いました。
俺もいまはもう何の興味もないものたちがたくさんあって、それは二度と戻らないと思います。
一度なくしたものを取り戻すのは不可能だし、自分が取り戻せたと思うそれは全く違う、別のものだと思います。
俺の場合、むかしは何となく読んでいたケータイ小説とかには、もう何も感じないんで。
例えば、誰かが死んだとして、その人との思い出や写真をあとから見直したときに、「懐かしいなあ」と感じてしまったら、その人は本当に、永遠に死んでしまうのだと思います。
悲しいことだけど、面白いとも思います。
なんか自分で何言ってんのかわかんないですけど(笑)、とにかく、そういうことなんですかね。
【2008/04/01 15:53】 | 翔平 #- | [edit]
こんばんは。コメントありがとうございます。
なんだか気にいってもらえてみたいで、うれしいです。

なんとなく、そういうことなんだと思います。
僕は昔好きだったものに関して、嫌悪すら感じることがあります。それは良くないと思いながらも、自然な感情なので、とめることができない。

ノスタルジーというのは繊細な感情だと思うのですが、よくわかりません。そんなに長き生きているわけでもないので。
【2008/04/01 20:15】 | キズキ #oSfzfPCQ | [edit]
いやいや、キズキさんの書くものは面白いですよ。
考えさせられます。
俺もむかし好きだったものに嫌悪を感じたりします。
例えば、恥ずかしいんですけど、俺は中学の頃に浜崎あゆみにかなり傾倒してた時期があって、高校に入る前くらいにはだいぶ冷めましたけど、いま彼女の曲を聴いても何も感じないんですよね。
いま思えば、あの頃の俺の聴く音楽とかはかなり変わりました。
俺はミスチル嫌いなんで(いい曲ばかりだと思うけど)ちゃんと聴いたことないんですけど、むかしは何となく聴くってのはあったのかもしれません。
たぶん純文学を読むようになってから、急激に趣味が変わったように思います。そうなると、本はやっぱすげえなって思いますね。
【2008/04/02 21:01】 | 翔平 #- | [edit]
どうもありがとうございます。
浜崎あゆみは、僕も一時期聴こうとしていたことがあって、友達に何故かもうれつにとめられました。
まあ、でも中学の頃は何を聴いたっていいとは思います。
昔だと、テレビにでている人しか聴かないで、自分で音楽を探すということがなかったんです。そういう意味では、僕も今では音楽に対する姿勢が変わっています。

CDは高いので、僕は小説・映画に対して、音楽への情熱がいまひとつなのですが、それでもです。
文学を読むと、確かに趣味がぜんぜん変わります。音楽ではPink Floyd、映画では岩井俊二、トリアー、そしてゴダールと、ちゃんとのめりこむきっかけみたいな人がいるんですけれど、僕にはどうもその大元が文学だという気がします。
絵画でも、演劇でも、そのものの見方が文学に接することによって劇的に変わり、それは新鮮なことで、すごいなと思います。
もっとも、たぶん僕は文学に影響をされすぎていて、映画を見るのにも文学を読むような感じでつい見てしまうので、よい見方ではないだろうと思うこともあるのですが。
【2008/04/03 20:59】 | キズキ #oSfzfPCQ | [edit]
止められたんですか(笑)
なんで止められたのか気になりますね。
俺のハマり方は尋常じゃなかったんですけどね。
俺も基本的にテレビ出てる人ばっかりでしたね。本当に今と昔の変わりように自分で驚きます。
俺もCDはあんま買わないです。中古でかなり安くない限り。
本当に、俺もかなり影響されてますね。文学に。
俺は映画とかは割と普通に見られますけど、小説はもうかなり影響されてます。
これは、ある意味危険なことなのかもしれませんね。
【2008/04/03 22:05】 | 翔平 #- | [edit]
当記事にすごくじいんとしてしまったわけなのですが。

自分は中学高校ですきになったものは、いまや不可侵の状態になっています。それさえあれば健康でいられることを確認する為にあたらしいものを求めているといっても過言ではないくらい。なにかをすきになる、文学音楽、それらの創成期にすきになったものを、いまでも悉く愛しているのです。それはぼくの求めているものにある程度一貫性があるからであり、どんな作品を眺めても、感じとる部分、本質めいたものはある種似通っているのではないかとおもいます。ぼくはそれを不幸とも幸福ともそれぞれおもいますが、不感症ともおもっています。未来に対して不感症だと。ぼくは小学生のころのぼくを信じすぎているのかもしれません。では十年後のぼくがいま求めつつあるものにたいしておなじ、つまり学生時代にすきになったものとおなじ気持ちを抱くかというと、それはわからないですが、想像できません。キズキさんはいま求めているものを通過してしまう日のことを信じられますか?

恥ずかしげもなく綴りますとぼくのなかで不可侵となっているものものは、江國香織、山田詠美、三島由紀夫、村上春樹、いしいしんじ、鬼束ちひろ、椎名林檎、COCCO、ラフマニノフです。
【2008/04/04 00:49】 | コウキチ #- | [edit]
なんででしょう。有無を言わさず、でしたね。

文学をいったん高尚なものだと思いこんでしまうと、高尚っぽい音楽以外をだめだと思ってしまったり、サスペンス系の映画が見れなくなったりしますからね(しました)。
それはぜんぜん良くないことなのかもしれないです。
あとは、映画に関してはどうしても「その監督の作品」という思いが強くなってしまう気がします。
これは初期のゴダールたちの提唱した価値観なんですが、すくなくともゴダール本人が「それはちがった」と言っていますし、やっぱり、映画なら俳優中心で見るとかカメラマン中心で見るとか、そういうのも必要なんじゃないかな、と思うことがあります。
【2008/04/04 20:43】 | キズキ #oSfzfPCQ | [edit]
こんばんは。コメントありがとうございます。何故か人気ありますね、この記事。

自分の本質めいたものは、どこで生まれるんでしょう。
僕は、けっきょく文学に対しても村上春樹的なものが好きです。ブローティガンとか、カポーティとか、です。
僕は、村上春樹が好きだからブローティガン、カポーティも好きなんだろうと思っていたのですが、でも、そうじゃなくて、僕は村上春樹を好きになる前から村上春樹的なものをずっと好きだったんだろう、とコウキチさんのコメントを読んでいてふと思いました。

僕も中学・高校の頃のもので、不可侵なものもあります。またその逆で、だいきらいなものもあります。
でも、なんというか、その不可侵なもんというのは、今の文学好きという性質を照射して不可侵になってしまったんではないかな、と思います。
そういう意味で、僕が昔好きだったものに対して、本当の思いいれはないかもしれないです。

ある作品を見たとき、がーんと衝撃を受けることがあります。そういう作品が好きです。そういう作品が多ければ多いほうがいいし、自分の価値観をどんどん変えていってくれる作品に出会うことが望ましいです。
でも、心のなかの不可侵なものはどうしようもなくあって、それはとても素敵で、大切なものだと思います。

>キズキさんはいま求めているものを通過してしまう日のことを信じられますか?

僕は、今好きなものを10年後も好きでいたいと思います。でも、あいにくその自信はあまりありません。だから、信じたくはないけれど信じられます。
自分が十年後も村上春樹を好きでいられるか。これは、僕は本当に難しい話だと思います。
【2008/04/04 20:54】 | キズキ #oSfzfPCQ | [edit]
おひさしぶりです。象と申します。
あまり関係の無いことかもしれませんが、せんじつ「ヤング・インディ・ジョーンズ戦下の別離」と言う本を読みました。海外のドラマを元に敬愛する友成純一がノベライズしたものです。ストーリーは甘ったるいロマンスだったのですが、第一次大戦下のロンドンを舞台に、歴史上の人物であるチャーチルや女性参政権の運動家が実名で登場します。こういう歴史的人物と架空人物を混在させた小説は日本にはあまり無いなあ、島田雅彦の「無限カノン」とかくらいで(文学史になると色々あります)。と思い、なぜか唐突に、日本人は歴史が苦手だ、と思ってしまったのです。
史実を題材にすると、全てを忠実にしようとするか、すべてをキャラクター化・虚構化するか、という極端な方式でしか歴史を再構築できないみたいな。極端な偏見だけど、これが、音楽にもいえるんじゃないかと、この記事を読んで徹夜で考え込んでしまったのです。
(「考えさせる文章」という無責任な褒め言葉もありますが、ほんとに考えちゃうのは(脱線気味だけど)めずらしい・・・。)
橋本治は「あ、ここにも自分がいる、と思うから人って勉強するんだよ」と言うようなことをおっしゃってましたが、「架空の人物」の歴史小説への登場は、コレの還元として何か歴史の内面化というか(だんだん支離滅裂になってきた)
そういうことかな・・・と。
つまりは、ある事実なり芸術なりに個人・自分がどのように存在するか、ということを想像したり、実際に生きて考えることが歴史なのかな・・・とかなんとか思い、かといって歴史だから忘れていいとか、そういうことじゃないわけだから、て何が言いたいんだ(電波系ではありません)。
つまりはノスタルジーという忘却はその時代なり聴いていた音楽なりの中にいた自分を忘却すること、歴史小説的には事実にのっとった客観形式に書き換えて「自分」を消すことなんじゃなかろうか、とか。ノスタルジーという美化は今度は全てを自分の都合のいいように考えることで、時代なり音楽を消していると。矛盾しているようで、ノスタルジーには共通しています、たぶん。
あとはどうも、「時代」に接することが出来るのは青春時代だけ、という思い込みがノスタルジーを助長する抑圧になってる気もする。ある年齢からは「芸術表現」に本気になるのは恥ずかしいことだ、みたいな風潮はあるし。
僕はいま自分が好きなものを本気で好きなら、十年後も好きなんだと思います。「本気」であるときだけが「自分」だと言いたいからです。
だから、ときめきメモリアルのキャラクターソングと大友良英は共存する、そこにいるのはどちらも本気の自分なんだから、とか何とか思っとります。
長文失礼です。この記事に人気があるのは、年をとるにつれて「本気」を社会的な方向に向けることを強制されてくる気がするからじゃないですか、と自分の問題にひきつけて考えちゃいました。
【2008/04/05 23:14】 | 象 #mQop/nM. | [edit]
こんにちは。コメントありがとうございます。

ぜんぜん見当違いのことを言うかもしれませんが、そうしたら、「こいつはばかか!」と思ってスルーしてやってください。

歴史というのはほとんど想像力のことだと思うんです。もし日本人が本当に「歴史が下手」だとしたら、それは日本人が歴史を固定的なものとしてしか扱えないからだと思うんです。

高橋源一郎が「千利休が現代に生きていたら、お茶なんかやってるはずないじゃん!」と言って、オノ・ヨーコが「ジョン・レノンが現代まで生きていたら、ヒップ・ホップでもやっているんじゃないかしら」と言っていたことがあります。
これを読んだとき、もし歴史というのが存在するならば、こういう発言そのものだろう、と思うんです。

高橋源一郎は歴史を、ひいては、歴史上の人物を固定的ではなく、明らかに動的に見ています。それは歴史上の人物を人間として見ているからだと思います。歴史上の人物は、こう言ってよければ、もはや人間として扱われていないと思うんです(だから、テレビで「歴史上の人物の意外な一面」みたいなものをやると、おもしろいと思う。そこに人間性を初めて見出せるから)。
これは、柄谷行人が森鴎外の歴史小説について言っていたこと(と言っても内容はまったく覚えていないのですが)と同じようなことだと思います。

「自分の過去」を「歴史」とみなすのならば、客観的事実に沿って「自分」を消すならば、やっぱりさみしいです。「時代」を消すとしたらやっぱりさみしいです。
けっきょくは、ものごとを忘れていくかぎり、そしてそれが過去であるかぎり、完璧な歴史認識なんてできるはずはないのですが。
歴史、というか、過去なんて、考えてみればずいぶんひとりよがりなものですね。

「若さ」ってすばらしいな、とちょっと思いました。
【2008/04/06 11:44】 | キズキ #oSfzfPCQ | [edit]
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