- 2008-04-11(金)
- Comment(0)
- Trackback(1)
![]() | 愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫) (2002/08) リチャード ブローティガン 商品詳細を見る |
![]() | 流刑地にて―カフカ・コレクション (白水uブックス) (2006/07) フランツ カフカ 商品詳細を見る |
僕は今3つの文章を書いている。このブログで書く文章。mixiで書く文章。そして、ネット上にアップしない文章。僕の文章空間はだからずいぶん貧弱なわけだけれど、その話はしない。
mixiで僕の日記を読んでいる人はほとんどいないから説明しておくと、mixiの日記で僕は毎回小説や詩から文章を引用している。そして、その引用がしっくりくる場合としっくりこない場合がある。
しっくりくるのは詩の場合。僕は中原中也の詩を何度か引用したけれど、おさまるべきところにおさまったという感じがする。でも、ブローティガンの『愛のゆくえ』とかカポーティの『冷血』などから引用すると、ぜんぜんしっくりこない。
僕としては、その本のなかで気にいったところを引用しているわけだけれど、たとえば『愛のゆくえ』から一部分だけ抜きだして引用しても、その文章がちっとも魅力的だとは思えないことがある。
娘は自分の体を持てあまし気味にすわった。すわったあとも、まだすわっている途中のようだった。
僕は『愛のゆくえ』からここを引用したのだけれど、どうも、この文章に至るまでの流れをつかんでいなければこの文章は魅力的に見えないような気がする。それに比べて、中原中也などの引用は、ほんの一部だけですごさがわかる。
死の時には私が仰向かんことを!
この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!
作品のほんの一部だけ抜きだしてみると、ブローティガンよりも中原中也のほうだ魅力的だ。 単発の言葉として、ブローティガンよりも中原中也のほうが優れているということだと思う。でも、それはそのままブローティガンよりも中原中也が優れている、あるいは、小説の言語よりも詩の言語のほうが優れている、ということにはならない。何故なら、かたや小説で、かたや詩だからだ。
一般的に、小説は詩よりも長い。そして、小説には人物がでてきて、その人がしゃべったり行動したりする。基本的に、小説でなされていることはそれだけだ。そして、そのしゃべったり行動したりするその積みかさねが、後のしゃべったり行動したりすること(その文章)を深いところで彩っているのではないかなあ、と思う。
以前、知りあいと「小説や映画の一部分だけを読んで(見て)、そこだけでおもしろいかどうかわかるか」という話をしていた。そのとき、「一文一文はつまらないのだけれど、全体で見たらなんかすごいおもしろいみたいな小説があったらけっこうすごいんじゃないの」とかなんとか言われた(ような気がします)。
ブローティガンを読みなおして、というか、カフカやベケットをたてつづけに読むと、あんがい、小説というのはすくなからずそういう性質を秘めているんじゃないのかと思える。
ブローティガンの『愛のゆくえ』を例に挙げると、p.23の4行目、
ヴァイダがそのクッキーを焼いた。
という一文がまさにそれだと思う。僕はこの一文がとても好きだ。それは、主人公の「わたし」のヴァイダに対する優しさと愛情、そしておかしみまでもがこの一文にたっぷり凝縮されていて、この一文を読むとたまらなく気持ちよくなってしまうからだと思う。凡庸な作家なら「ヴァイダが焼いたクッキーを褒めてもらい、わたしもとてもうれしかった」とかなんとか書いてしまうところを、ブローティガンはこんなふうに書ける(高橋源一郎も村上春樹も、この一文は書けないと思う)。
しかし、僕が今書いたことを実際に感じとってもらうためには、最低でもp.19のうしろから5行目、できるならこの小説の冒頭から読んでもらわないとだめで、「ヴァイダがそのクッキーを焼いた。」という一文だけ見てもおもしろくもなんともない(はずです)。
つまり、この一文は、それ以前の文章の積みかさねによって初めて優れた一文となるのだと思う。それは、典型的な詩のようにいかに優れた一文を書けるかということではなく、文章の積みかさねなかのどのタイミングでどんな文章を入れればすばらしく見えるかということが小説にとっていかに大事なことか、についてのひとつの示唆だ。
これは、ある意味では創造というより編集だと思う。ゴダールは映画の優れたところを「何も創造しないで作品がつくれるところ」だと言っていたけれど、それと同じ意味で、これはすくなからず配置の問題が関わっていると思う。つまり、どこにどの文章を置くことができるか、という。
僕は、以前「優れた小説は一文一文がおもしろい」というようなことを言ったけれど、それはあんがいちがうのかもしれない。カフカでもベケットでもそうだけれど、それは純粋に「どの文章のあとにどの文章を持ってくるか」という問題が実はかなり重要なのかもしれない。
三時間くらい前に、僕はカフカの『判決』を読んだけれど、これは3段落目から「うおー!! カフカだー!!」と強烈に感じてくる作品だと個人的に思う。『判決』は前半に比べて後半になると異様にテンションが上がってくる作品で、何故テンションがこんなにも上がるのかと言えば、やはり前半があったからだと思う。
『判決』を最初からじゃなくて、まんなかから読みはじめてみるとよいと思う。たぶん、『判決』のおもしろさは半減するだろうから。




コメント