- 2008-04-30(水)
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![]() | わたしたちに許された特別な時間の終わり (2007/02/24) 岡田 利規 商品詳細を見る |
岡田利規の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を21頁まで読んだのだけれど、なんだかものすごい傑作な予感がするので、今ここでとりあえず何かを書いておきたい。
始まりはとても抽象的な視点だ。
かたまりの中の六人のうちで、今自分たちがライブハウスに行こうとしていることはおろか、そのライブハウスの名がスーパーデラックスというのだということも、知っていた者がどれだけいたのか分からなかった。
岡田利規はまずこういう書きかたをする。誰にも寄りそわない。人間をかたまりのようにあつかい、そのなかに突き放したリアリティをぶちこむ。最近の作家で言えば、綿矢りさの『夢を与える』がいちばん近いだろうか。
段落が変わるといきなり一人称「僕」に変わる。作品中でなんの前触れもなく人称が変わる小説を、僕はほかにボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』しか知らない。『うたかたの日々』のすごいところは、三人称がいきなり一人称に変わってもなんの意味もないところなのだけれど、岡田利規の場合は明らかに作為的だし、それは技巧として成立している。ヴィアンに「その技巧は立派だよ」と言えば「はあ?」と返されそうな気がするのに対して、岡田利規に同じことは言えば「うん、技巧は技巧なんですけれど、でもそれはべつに、なんというか……」とか返されそうな気がする。
技巧の紹介。
いつもそうだったが、映画館はその日も客はまばらで、しかしそれにもかかわらず、僕と彼女は隣り合った席で映画を見ていた。彼女の方が左隣に座ってきたのだ。僕は映画が終わるまでの時間をずっと、その左側の気配だけを冷やして固めたような感じのまま過ごさなければならなかった。見終わったとき、気が付くと左半身が痺れたようになっていた。もちろん今はもうその痺れはひいている。
映画館のエピソードは現在の時制から見ればおとといのことなのだけれど、いちばん最後の「もちろん〜」の文で現在にぴたりとくっつける。「もちろん今はもうその痺れはひいている。」なんてあたりまえのことはふつう書かない。
岡田利規の劇団「チェルフィッチュ」は、口語がひとつの特徴になっているみたいだけれど、その良さは小説でもちゃんと活かされている。地の文の女の子の台詞。
今映画に出てきたひとり黒人の女のコがいたじゃないですか。
ここを読んで驚愕したのだけれど、何がすごいかと言うと「ひとり」を入れる場所。普通、ここに「ひとり」は入れない。むしろ、入れられない。書き言葉からすればこのひとりは完璧に破綻していて、小説というのはいくら言文一致体なんて言ってもしょせん書き言葉である以上、小説(書き言葉)に慣れれば慣れるほどここに「ひとり」は入れるのは難しくなる。岡田利規は本当に耳がいいと言おうか、あるいは他人がどうやってしゃべっているかということをきちんと意識して聞いている人間なんだと思う。
最後に、心底びっくりした20頁からの一人称「私」(女)に切り替わった以降を引用する。
私がそう言うと彼は、そうなんだ、行こうかな、と言った。もちろん彼がでまかせでそう言っているのだということは分かっている。でも私は、わざとというか、あえてというか、それを真に受けて、つい、すかさず、あそうですか、それじゃここはひとつ行きますか一緒に、と言った。でまかせだと思いたくなかったりとか、でまかせでないことにしてあとを展開させちゃおうという勝手なもくろみがあったりとか、あとは、ほんとに彼が行きたいと思っているのだと思っていた部分も少しはあったりとかで、そう言ってしまった。しかも私は、もし誘ってみたところで結果がどうなるかなんて見えているし、でも明るく頑張ればうまく行くと信じ切っているんだ、みたいな、わざとらしいような真情のこもっているふうな言い方でそれを言った。
舞城王太郎が現れたとき誰もが驚いたのは、そこに小説で今まで書いてこなかった口語的な部分があったからだと思う。高橋源一郎は、文学が行きづまるとき、作家たちは必ず口語で小説を書こうとする、と言った。口語というのは実は小説を書く上での最終兵器なのだと。近代文学の始まりは口語だった。口語の力が小説を新しいステージに導いた。
僕が舞城王太郎を好きなのは口語的な部分にいくらか惹かれたからだと思う。そもそも、口語的な書き方だからこそあんな愚直な小説が映えるのだ。地の文をほとんど書かず、ノリとツッコミだけとしか思えないぶちぎれた会話だけで延々小説を展開させる宮崎誉子にすくなからず惹かれるのも、そこに口語の力を見るからだと思う。
上の文はまちがいなく口語的だ。舞城や宮崎よりも遥かに自然に口語をとりいれていて、その圧倒的なセンスにはただ舌を巻く。
高橋源一郎は、岡田利規を評して、「(最終兵器としての)口語で小説を書いても、その先に実はなんにもないことを示してしまった」と言った。
さて、これからの小説はどうなっていくのでしょうか。



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