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言葉、擦りきれていく残影

2008.05.03(22:04)

隠喩としての建築 (講談社学術文庫)隠喩としての建築 (講談社学術文庫)
(1989/03)
柄谷 行人

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贖罪贖罪
(2003/04)
イアン マキューアン

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本谷有希子の日記を読んだあと、いざ自分の日記を書こうかと思ったらちっとも自分の文章になっていなかった。4/30の日記のこと。誰もが自分の文体を 持っていると思いこんでいるけれど、そんなのはまるで嘘で、自分の文章は実はほかの誰かの文章のよせあつめや断片にすぎない。でもその断片というのは僕の すりきれた心のかすがよせあつめたものだから、それはちがう誰かの文章でありながら、同時に僕の文章でありうる。僕は僕の文体を持っていない。それは誇れ ることではなく、僕は僕の文章を呪い、他人の文章を崇める。そして僕はいつまでも文体を持つことはないだろう。

僕があこがれるのはいつも女性の文章だった。僕はあの人にもあの人にもあの人にもあの人にもあの人にもあこがれた。僕はできることならば女性にな りたかったし、女性にはなりたくなかった。しかしながら女性が女性であるだけで惹きつける文章が書けるわけがなく、それはたんなる自意識ゆえの妄想にほか ならず、あるいはただの強姦的活動に堕す。もし僕が女性となり女性の文章を書くとしたならば、僕はまちがいなくこう言うだろう。
「男性になりたいなー」

5/1
授業と研究。

5/2
授業と研究。実家に帰る。

5/3
一日中アルバイト。

僕が同じ研究室の方にチェックをしてもらおうと送った論文のアブストラクトは、とても英語らしい英語となって返ってきた。僕の英語はよっぽどだめ だったんだろう。Thanksを100回言いたい。右から左へ受けながして教授のもとに送ったが、その際付属した質問をすべてスルーされ、関連論文を付属 された一言が返ってきた。
「締め切りが延びました。5/7にもう一度話し合いましょう」
僕のアブストラクトはよっぽどだめだったんだろう。

締め切りが延びたなんてホームページにも書かれていない。その情報はいったいどのルートから流れてきたのか。僕のまわりではとてもミステリアスな 現象が起きている。世界はすべて終わっているんだなと思った。この世界は実はもう滅んでしまっていて、僕が生きている現実は地球が見ている夢なんだろうと 思った。


柄谷行人の「隠喩としての建築」を読みおえる。
岡田利規「わたしたちに許された特別な時間の終わり」をほぼ読みおえる。
「3月の五日間」については20頁くらい読んで書きたいことがあったのでブログに書いた。そのあとは特に書きたいことはなかったのだけれど、ラストシーンは秀逸だ。
「わたしの場所の複数」は岡田利規の若さがでているような気がした。成熟感のある「3月の五日間」に比べて落ちつきがなく、何を焦っているんだろうと思う。
マキューアンで言えば「贖罪」と「セメント・ガーデン」を比べるような話だと思う。もちろん「贖罪」のほうが傑作だけれど、「セメント・ガーデン」もまたべつの意味で良いと思える。
「わたしの場所の複数」のほうが発表が後だ、と知ったとき、「見る目がないなあ、おれは」と激しく思った。




コメント
はじめまして。
実はちょこちょことお邪魔させていただいてました。キズキさんはいつもなんだかステキな事を書いていらっしゃるので、短いコメントを残すのが心もとなく感じていました。

「誰もが自分の文体を 持っていると思いこんでいるけれど、そんなのはまるで嘘で、自分の文章は実はほかの誰かの文章のよせあつめや断片にすぎない。」

って言葉、ハッとしますね。
私も感じています。同じブログに文章を書いていても、そのときの感情とか、自分がどっぷり浸かっているものが何なのかによって、全く違った文体になってしまうあたり、自分で書いていて私は個人的に楽しいなって思います。

言えることは、どこかに存在している物事の影響からは逃れられないってことを知っている人の文章なのか、あるいはそうでないのかっていうことは、分かる人には分かるのかもしれませんね。

分かっている人の文章は窮屈なのか、あるは知的に映るのか、私自身はあんまりわかりませんが。

ところで、ロバート・キャパ好きです。
【2008/05/05 03:35】 | meta #PkTBVWQs | [edit]
こんにちは。はじめまして。

短いコメントでももちろんだいじょうぶすよ。どうかお気になさらず。

文章を書くときは、やっぱりほかの人の書いている文章の影響をどうしようもなく受けます。それは、ときどき書きづらくなって困ることでもあるのだけれど、自分でも予期していなかった文体や物事が書けたりするので、やっぱり楽しいです。

小説家のなかには、「小説を書いているあいだはほかの小説を読まない」という人がいるのですけれど、僕はやっぱりほかの人の小説に影響を受けた総体として何かを書いてほしいなあ、などと思います。

僕にも窮屈なのか、知的にうつるのかはわからないですけれど、物事の影響から逃れられないとわかっている人の文章のほうが、より自由でいられる気がします。

ロバート・キャパに関しては至上最高の知ったかぶりで名前をだしました。ごめんなさい。僕はロバート・キャパについて何にも知らず、しかもつっこまれるとは思ってもいませんでした。この記事を書いている時点で、僕がロバート・キャパを知ってから2時間くらいしか経過していませんでした。
写真に関して死ぬほど無知なので、たまには写真でも見ようと思っていろいろ検索していたらでてきました。でもいい写真だと思います。なんとなく。
【2008/05/05 17:07】 | キズキ #oSfzfPCQ | [edit]
こんにちは。文体の影響を受けるという話で、浅田次郎さんの次のようなエッセイがとても印象に残っています。


川端康成に嵌まった人は多いはずである。ただしこの作家固有の空気、一行を読んでそうと知れる文体は憑物のごとく祟るので、小説家たらんとするならいっさい触れぬか、触れてしまったらとことん読んで脱却をはかるしか手はない。現代作家でもいまだ祟られている人は多い。
かくいう私も、十代のころに出版社に持ちこんだ原稿を「川端のエピゴーネン」と言下に却下された経験を持つ。だいぶ良くはなったが、まだいくらか祟られている。
(浅田次郎編『見上げれば星は天に満ちて~心に残る日本文学秀作選』)



とことん読んで脱却をはかるというところが、ユニークだなぁと思っています。作品が映画化やベストセラーになっている現在でも、浅田さんが「まだいくらか祟られている」と自己批判できるところは、作家としてつねに自分の文章を吟味しているからなのかな、と感じました。
【2008/05/06 05:43】 | みか #8zrPEpEU | [edit]
こんにちは。

他人の文章の影響を受けるのは、僕はまったく問題ない話だと思います。他人の影響を受けて、それを自分のなかでどう脱却するか(いかに川端康成のエピゴーネンにならないか)、というのが、文章を書く上での重要な問題ではないか、ということは、常々思います。

浅田次郎は「とことん読む」をその方法としていますが、僕もそうでありたいと思います。
基本的な感情としては、「そんなに影響を受けるぐらい好きならば、とことん読みたい!」とやっぱり思います。
これに関しては逃げてはだめだと思います。

僕はすぐに他人の影響を受けてしまいます。
以前僕はこのブログを「~なのです。」とかそんな呼びかけ調の文体で書いていたのですが、それはゴダールと高橋源一郎の影響です(パ・ク・リ)。
でも、そういうふうな書きかたを続けているのはつらいし、どこか良くない部分があると思って、今はだいぶ書きかたを変えています(今誰の影響を受けているか、僕自身にも特定はできないのですが、予測はできます。誰かは秘密ですが)。

でもそういうゴダールや高橋源一郎に似た書きかたをやめた、というのも一種の逃げ、みたいなものと取れる可能性もあります。きちんと自分の中で消化できたらなあ、と夢に見ます。
【2008/05/06 17:36】 | キズキ #oSfzfPCQ | [edit]
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