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舞台の上で首を吊る

2008.05.05(23:59)

ミュージック・フロム・ビッグ・ピンクミュージック・フロム・ビッグ・ピンク
(2000/09/27)
ザ・バンド

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とてもたくさんのいやな予感があった。どれもが僕のなかでちいさなけれど消えにくい炎みたいにくすぶって、ちりちりと必要なものを燃やしていた。僕がこん な思いにとらわれるのは、おそらく僕がひどくまちがっているからだと思う。でも、たくさんのことにたいしてまちがいを続けてきたからこそ今の僕があり、そ して、他人から見れば短い時間なのかもしれないけれど僕という一個人から見ればとても長い歴史の堆積がそれを固定的なものにしてしまっている。だから、せ めて僕が僕にしてやれることは、認めてやることしかない。それは笑いのないコメディなのだけれど。

こんな話がある。

ある売れない芸人が、支配人に言った。
「絶対に観客に受ける芸を思いつきました」
支配人は言った。
「ほう。それはどんなものだい?」
「舞台の上で首を吊るんです」
支配人はしばらく考えたあと、こう言った。
「だけどきみ、その次の日はどんな芸をするんだい?」


5/4
大宮で友達と一緒に飲んでいた。何故か食べきれない量の料理が僕らのテーブルの上にのっていたけれど、でもそれを食べきれないと僕たちが判断できたのは食べきれない量の料理がテーブルの上にのったあとだった。
5/4には、果たそうとしていた約束がひとつつぶれた日だった。僕もとても残念だったけれど、なんとなく、僕よりももっと残念だと思っていた人がいたように思う。なんだかそれはとても すてきなことのように思えた。
Bob dylanの「desire」がどうしても欲しいと思っていたのだけれど、何故か大宮のタワーレコードでTha bandの「Music from big pink」が1500円(!)新品で売っていたので、いつの間にか買っていた。友達のうちで聴いて「これは渋い!これは渋い!」と言いあっていた。とても 渋いと思う。というか、you tubeで挙がっているライブ映像とけっこうアレンジが違うような気がするのだけれど。
大宮のブックオフで大江健三郎「核時代の想像力」とジェイ・マキナニー「ランサム」を買った。来る大江健三郎×岡田利規の公開対談にあわせて、予習をするのだ。

5/5
学校の研究をやろうと思ったのだけれど、やったのだけれど、ぜんぜん集中できなかった。どうやら、僕は環境が変わるととたんに何かがうまくいかなくなるらしい。実家では下宿先よりも本が読めない気がする。研究もできない。でも映画は見れる。
諏訪敦彦監督の「2/デュオ」を見た。ものすごく正直なことを言うと、僕はこの手の映画が大好きだ。とても好みで、なんだか僕のためにつくられたとしか思えない映画だった。人に薦めはしないけれど、すばらしい映画だと思う。



こう書いてみると、意味の伝わらないことは書かないほうがいいんじゃないかと思うときがある。僕は今までに意味が伝わらないように(あるいは、意 味が伝わらなくてもよいと思えるように)文章を書いたことが何度かあって、僕は一個人へのお手紙としてもやはり意味の伝わらない文章を書いたこともある。 でも、それは今考えるとひどくまちがっているように思える。事実それはとてつもなくまちがいすぎていて、まちがいすぎていて、まちがいすぎていて。
僕らはわかりあえない存在かもしれないけれど、それを踏まえたうえでわかりあおうと努力する存在なのだった。川上未映子はそのことを何度も強調していた。
僕は書く場所をまちがえている。そのことは何度となく、痛感し、迷い、目的を求めて歩いてきた。でも重要なのは、書く場所は誰からもあたえられな いということだ。書く。そのことによって書くことが許される空間が生まれる。書くということははじめから矛盾した体系を抱えている。人はそのことによって いくらか苦しむ。でもその矛盾した体系を破壊することはできないし、またその必要もない。矛盾のまま文章は何か大切なものの奥底に浸透し、ぐずぐずと腐敗 し、腐敗させていく。物語が必要とされるのは矛盾を解消するからだ。これは物語ではない。

9.11のテロが起きてからもう7年になる。
「ish」というブログに衝撃的な言葉が引用されている

結局人々は、僕らのことを知らないから僕らを恐れるのさ。彼らのせいじゃない。だって僕らについては善悪二種類のニュースしか流れない。悪い方の ニュースは、僕らを「武装テロ集団」と呼ぶ。そしてたまにましなニュースがある時は、僕らは「武装テロ集団の疑いがある」って扱いだ。(ディーン・オベイ ダッラー)

僕は以前ブログで、「彼らがテロを起こしたことによって、初めて彼らのことについて語れるようになった。それまで、僕ら(すくなくとも僕)は彼ら について語る言葉を何ひとつ持っていなかった。彼らがテロを起こしたことによって、僕は初めて彼らについて語れるようになった。すなわち、『彼らはテロを 起こした! 彼らはテロリストだ!』と」と書いたことがある。
僕がここで「彼ら」と表現しているのは、9.11の問題についてまるで無知だからだけれど、とりあえずそれはおいておいておく。僕の言ったこと は、今思いかえしてみてもそんなにはまちがっていないと勝手に思っているのだけれど(いや、僕個人の話だからまちがっているとかまちがってないとか、そう いう話じゃないのだけれど)、本当の問題はそのあとだ。
僕らは彼らについて語れるようにはなった。でも、もちろんその語りかたはまちがっている。もっと言えば、僕らは彼らについて語れるようにはなったけれど、彼らと会話ができるようにはなっていない、ということだ。
そろそろ会話でも始めませんか。

会話ができなくなっているということは感じる。情報化社会だと言うけれど、リテラシーが上がらないかぎり情報化社会は成立しない。情報が過多にな れば本当の情報はすぐに隠れてしまうからだ。だからリテラシーの上がらない状況で情報化社会が進めば情報化社会はますます成立しなくなる。そして何故か多 くの人は「情報」と「会話」をまちがえる。「情報のやりとり」を「会話」だと思ってしまう。誰もリテラシーなんか持っていやしない。

今日ふと思ったこと。
「売れる本はおもしろい」というのは、嘘じゃないだろうか。
売れるのは、「おもしろい本」じゃなくて「おもしろそうな本」だと思う。だって、「おもしろい」か「おもしろくないか」なんて買ったあとじゃないとわからないじゃないか。

mixiのレビューは2万字を越えてはいけないらしい。
僕は残念ながら2万字以内でレビューを書けるほどには文章がうまくないので、たいていのレビューははじかれる。残念だ。




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【2008/05/06 10:28】 | # | [edit]
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