- 2008-05-10(土)
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![]() | わたしたちに許された特別な時間の終わり (2007/02/24) 岡田 利規 商品詳細を見る |
大江健三郎×岡田利規の公開対談を聞きにいった。講談社の前にはすでに長い列ができていて、すこしだけ緊張しながらその列に並んだ。来ているのは年配の方が多く、おじいさんがたくさんいた。僕は比較的後ろのほうの席につき、高い天井を見上げてことがはじまるのを待った。
大江さんは非常におだやかで、歳をとっているかのように歳とり、おじいさんであるかのようにおじいさんだった。対談をはじめる前に「前回の長嶋さんとの対談のときは、長嶋さんの応援団に『長嶋さんが一生懸命しゃべっているときに大江は眼鏡を拭いていた!』と怒られた」と語ったのでみんなが笑った。でも大江さんは岡田さんが一生懸命しゃべっているときに「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を読んでいた。
大江さんは岡田さんの小説をとてもうれしそうに褒めていた。「この作品にでてくる女の人は、かつてどんな小説にも書かれたことはない」と言った。「外国にもこんな作品を書いている人はいない」と言った。大江さんは話に夢中になると、すこし前のめりになって、声もおおきくなった。たぶんあの人は本当に小説が好きなんだろうと思う。
視点の話をしていた。「岡田さんの小説の視点は神の視点ではありません。演劇の視点です。演出家の視点です」と大江さんは言った。演出家として舞台を見る岡田さん。そして、ときに舞台上に立つ役者と同調して舞台を見る岡田さん。演劇というものが持つ特質を岡田さんは無意識的にもとりいれているのだと思う。
岡田さんの小説は視点がとても独特なのだけれど、僕はたとえばダン・ローズの「ティモレオン」や綿矢りさの「夢を与える」と比べてどうなのかという疑問を抱いていた。そして、僕が岡田さんの小説についていちばん感心したのは視点ではなかった。僕はつまりそこで視点について考えるのをやめた。大江さんはさらに「岡田さんの小説の視点のとりかたが何故成功しているのか」という点までくわしく語った。このあたりになると僕はもうふたりがいったい何を話していたのか覚えていない。
話が前後してしまうのだけれど、まわりには一生懸命メモをとっている人が多かった。僕はそれを見てメモをとるのはやめようと思った。僕はできることならばその場で目をつむってしまってもよかった。声が響いていた。どれもがたどたどしく、拡散してしまった何かの破片をなぞるような声だった。
大江さんは老年について語った。「僕はもう3年やれればじゅうぶんだ」と言った。「僕が死んだら大江健三郎賞は終わる。この賞5回でじゅうぶんです。5回やれれば、あと2回は失敗できる」と言った。おだやかな死の気配があった。僕らが生きていくと同時に、ある分野の偉大な人が死んでいく。僕は今日ひとの日記で佐野洋子ががんにおかされているを知った。ヴォネガットも死んだしクラークも死んだしロブ・グリエも死んだ。僕が直接には関われるはずのない人たちだし、僕がそれを知るのは無関心なニュースでしかないのだけれど、僕はその人たちがリアルタイムでいなくなっていくことにたいしていくらかの感傷をいだかざるをえない。
大江さんは「希望」について語る。「希望の根拠」について語る。「岡田さんの小説は希望だ」と語る。僕はそれを日和見だとは思わない。それは僕みたいなたかだか20年とすこししか生きていない人間に語れることではなかった。僕としては、重さと穏やかさに満ちたその「希望」の残滓をすこしでもつかめるようにあがくしかない。
お話の詳細は、たとえばこちらなどを参考にしてください。
対談内容について一部内容が異なるかもしれませんが、たぶん僕がまちがっています。何せよく聞こえなかったのです。そして、僕はそういうことをぜんぜん気にしません。



コメント
Re:第2回大江健三郎賞受賞記念 大江健三郎×岡田利規 公開対談
tonton3さんへ
こちらこそコメント、トラックバックありがとうございます。
僕自身あっという間に忘れた対談内容をtonton3さんの記事を読んで思いださせていただきました。どうもです。