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どんな問いも 愛の答えも すべて政治につながっている

2008.05.14(16:53)

シンボルスカ詩集 (世界現代詩文庫)シンボルスカ詩集 (世界現代詩文庫)
(1999/12)
小海 永二、伊藤 桂一 他

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最近、mixiの日記もブログの更新も滞っていて、とても良い感じだった。その理由をかんたんに言えば学会に向けてのアブストラクトをしあげたりアルバイ トをしていたりしたからなのだけれど、その忙しさというのは実に中途半端な忙しさで、本などはわずかに読んでいられたのだけれど(ネット上に)何かを書こ うという気持ちにはまったくならなかった。
たとえば部屋にひきこもり、本を読み、そこで得たことをぞんぶんに糧にして何かを書いていくということは多分に病的な要素を含んでいる。何かを 書かないでいられる人間は何かを書かずにはいられない人間よりもずっと健康的ではある。僕はそんな健康さよりも病的なものを好んできてしまったらずいぶん まちがったことになっているのだと思うのだけれど、何度も言っているように、僕はあるありえたかもしれない現在と僕の現在を比べることはできない。だか ら、これは考えてもしかたのないことかもしれない。

僕は何かを書かないでいられるように見える人が書いたとてもすばらしい文章をいくつか知っていて、そしてとても楽しくそれを読んでいる。僕は本当 にその人がうらやましいし、そこに書いてあることをやはりうらやむのだけれど、僕は、本当にそこに書かれていることが書かれずにすんでしまう文章なのかを 疑う。その文章はとてもはつらつとしている。そのはつらつとしたことを書かなかったとしたら、そのはつらつさはどこへ行けばいいのだろう。書かれたはつら つさと書かれなかったはつらつさ。どちらかが誰かを傷つけるとするならば、僕らはどちらを選ぶのだろう。

あー、そうか、無駄に意味深なことを書くのはよくないことなのか。



ちょっと前の話だけれど、ボブ・ディランの「欲望」をようやく買った。今までボブ・ディランのことをたぶん本当に好きではなかったのだけれど、 「欲望」のせいで僕のなかのディランの株価は急上昇である。「ハリケーン」のあまりのかっこうよさにひいた。「ハリケーン」ってこんなにいい曲だったっ け。ヴァイオリンの音は好きです。


「欲望」には「サラ」という曲が入っていて、これがなんとも言えずによい。しかし、ディランと言えばみんな歌詞歌詞ばかり言うのだけれど、本当に ボブ・ディランの歌詞はいいのだろうか。僕は歌の歌詞だけをとりだしてそれを読んで感心したことはほとんどなくて(1回、か2回、あるかもしれない)、だ から歌詞というもののとらえかたがいまだによくわからない。以前にブログで「僕がある曲の歌詞を聴いて感動するのは歌詞がいいからではない。その歌詞がそ の曲にのっているのが感動的だからだ」とかいうことを書いたと思うのだけれど、今考えればそれはかなりのところ正確なような気がする。

僕はたとえば「サラ」をネット上の素人の書いた訳詞を読みながら聴いていくらか(すごく)感動したのだけれど、「サラ」なんて普通に考えたらちっ とも良い歌詞ではない。ただ名詞の使いかたはとんでもなくうまい。カリコ・ドレス。メソディスト教会。ポルトガル・バー。ホワイト・ラム。意味はべつにど うでもいいけれど、具体的な事象はしっかりと胸のなかにせまってくる。日本人(というか、僕)にとってそれらの言葉はとても舌触りが良いし、いちいち感心 する。日本人向けの言葉だと思う。
「欲望」がうれしいのは、メロディアスなことだ。メロディがよい曲はまあなんと言ったっていい曲だし、だいたいにしてディランの曲はなんという かそんなにメロディが良い曲ではない気がするので、うれしい。「欲望」の影響で「ブロンド・オン・ブロンド」などがとてつもなくすばらしいアルバムに聴こ える。なんてすばらしいアルバムなんだ!

大江健三郎の「核時代の想像力」を読みおわった。「講演集」の類がすばらしいのは、なんと言っても何を言っているのか非常によくわかるということ だ。主に想像力についての話だった。僕らはただ目の前のものを見るだけでも想像力を使わなくてはならないらしい。ちなみに、この本の冒頭には2頁ぐらいの 短編小説があるのだけれど、絶品。大江健三郎はこんなすごい書き手だったのか!

他人のブログなどを読むと、哲学や思想を本当に理解しようという人たちがたくさんいて、僕はその人たちをとてもえらいと思う。僕にはそういう志が 欠けている。僕はいわゆる入門書的なものは読まないし、いきなりニーチェなどを読んで「わけがわからん!」と言う。それは、以前にもどこかに書いたけれ ど、「ニーチェに興味があってもニーチェの思想をわかりやすく解説しているその人には基本的には興味がない」からだ。
けっきょく僕には探究心などはない。あるものごとや学問について体系的に学ぼうという気が最初からないから、それらも身につかない。だからもし本気で哲学や思想などを学ぼうとするのならば、きちんと入門書などを読んだほうがいいと思う。

Paul Austerの「THE NEW YORK TRILOGY」のペーパーバックを買った。「シティ・オブ・グラス」「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」の3つが入っている。柴田元幸が何度も何度も 「オースターの英語はかんたんだから、ぜひ原書で読んでください!」と言っていたので、読んでみることにする。原書と辞書と翻訳本があれば読めるだろう。 だいたい英語を10年以上も勉強しているわけだから、そろそろまともに本が読めてもいい頃じゃないかと思う。
英語で小説を読めることはとてもすばらしいことだと思う。最近、オースターの翻訳がとまっている。未訳のものも読めるし、翻訳がどういう行為に 基づいているか、知れるから。もちろん、翻訳をばかにしているわけではない。翻訳が日本文学にもたらしたものはかぎりなくおおきい。いや、そもそも、日本 文学は翻訳として始まったのだ。村上春樹が偉いのは「文学とは翻訳のことだ」と再認識させてくれたからだ、と言ったのは、誰だったろう。

今は同時に3つの本を読んでいる。村上春樹「ノルウェイの森」、ティム・オブライエン「本当の戦争の話をしよう」、シンボルスカ「シンボルスカ詩集」。

非政治的な詩を書きつけたとしても
やはりそれは政治的なこと
空に月が光っていても
それは既に月だけの問題に止まりはしない
なすべきか なさざるべきか これが問題だ
どんな問いも 愛の答えも
すべて政治につながっている
      ――ヴィスワヴァ・シンボルスカ/世紀の子供たち

シンボルスカの知名度というのはおそらく皆無だけれど、20世紀最大の女性詩人らしい。そんな肩書きはどうでもいいけれど、中身がすばらしい。あ ふれる知性を惜しげもなく見せ、しかも気品がある。知性や知識をとても直接的に小説のなかにとりこむのは実はけっこう難しいことだと僕は思う。だから、ミ ラン・クンデラはすばらしい。シンボルスカはすばらしい。たまたまこれを買った僕を褒めたい!
オブライエンの「本当の戦争の話をしよう」は再読だけれど、やはりすごい。もし僕が戦争について何か口にしたとしら、すべてこの本に書いてあることだと思ってもらっていい。
村上春樹の「ノルウェイの森」。
一年以上読んでいなかったのだなあ。僕がこの本を読むのは3度目か4度目だけれど、なんというのだろう、

ぼくはノルウェイの森が大好きだ!





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【2008/05/14 21:01】 | # | [edit]
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【2008/05/14 21:03】 | # | [edit]
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【2008/05/15 12:09】 | # | [edit]
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