- 2008-06-29(日)
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大きな事件があって、人々が放心状態に陥ると、まず必要になるのは、薬や食品や水ではありません。毛布や、救助犬や、軍隊でもありません。なにより、言葉なのです。彼らのショックを和らげ、不安を解消させるための言葉が、必要とされるのです。
――高橋源一郎/ニッポンの小説 百年の孤独
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文学というのは言葉を用いる芸術だ。その体裁ははっきり言ってなんだってかまわないし、何を持って文学と言うのかその規範さえもいまだにはっきりと規定されてはいないと僕には思えるのだけれど、その根本のところに「言葉」があるのはまちがいない。言葉というのは僕たちのまわりあふれすぎているせいで、自由に使えるとかんちがいされやすい。けれど僕の考えでは僕らはおそらく言語的にとても不自由な生き物だ。そして僕たちはそれに無自覚だ。だがその「不自由さ」に気づく瞬間・空間に文学が発生する。文学は万能ではない。その発生の瞬間から絶対的な矛盾を抱えこんで離さない。文学は不可能を前提として生まれたのだ。
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言葉を使って何かを表現するとき、多くの場合言葉はあるものの代替としての役割しか果たさない。「石」という言葉は「石」というものの代替として働く。実際に僕が石を見せて「これが石だよ」と示すことなく、「石」と言っただけで相手にそれがつたわるのは、「石」という言葉が石としての代替として働いているからだ。ただし、もちろんこの代替としての機能は不十分であるし、そもそも完璧な代替として働く必要性すらない。「石」という一言をとってみても、おおきい石、ちいさい石、各人が「石」から連想するものはちがうはずだ。「石」というのは「石」というものが表している本質とは実際のところ関係なく、それは社会的・集団的な価値観・慣習から石に「石」という名前がつけられているにすぎない。「石」なんてものひとつとったところでこれほどのずれがあるのだから、たとえば「孤独」やら「愛」やら「国家」やら「政治」やら、そのあたりの抽象的なものを表す言葉なんてもはや僕らの手に負えない。だから、僕らはそのところを自然とやりすごしている。文学のひとつの役目としてこれを自覚的にする、というものがあるのかもしれない。
すべては言葉として具現化される。言葉というのは具体的な抽象物なのだ。保坂和志という小説家は「あるものは、名前がつけられた瞬間に存在する」と言ったことがある。たとえば「セクハラ」や「パワハラ」などは名前がつけられる以前は存在しなかった。それに準じた行為はあった。本質はあったはずだ。けれど僕らは今で言う「セクハラ」や「パワハラ」と認識することはできなかった。
国境というものは実際には存在しない。海の上に空までそびえる高い壁がそびえているわけではない。誰かが地図上に線をひき、ここから右はおれの国、ここから左はあんたの国だと決めた。けれど僕らはまるでそれを具体的なもののように扱う。法律も憲法も言葉だ。憲法が国をつくっているとするならば、国も同様に言葉を基本として成りたっている。言葉は力をあたえる。何故僕らが人を殺したら牢屋に入れられるか、あるいは首を吊らされるか、それは司法という言葉に力が宿っているからにほかならない。
けれど、何度も言うように言葉は完璧ではない。各人によってちがう言語感覚を持つ以上、言語で成りたっているこの世界が各人にとってすっかり同じものとしてあつかわれるはずがない。この世界は各人のずれと同期して発生するゆらぎ・矛盾をはらんでいる。
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たとえば文学の対極にあるイメージの数学も計算に特化した言語だとみなすことはできないだろうか。僕らは計算しやすいようにもともとの言葉を「数式」に置きかえている。それが数学だ。「太郎くんはりんごを4個買いました。みかんを8個買いました。さて太郎くんは何個の果物を持っているでしょう?」という文章を数式に置きかえるのは小学生でもやっている。ただし言うまでもなく数学も言語である以上矛盾をはらんでいる。数学で扱われる点は大きさを持たないもの、線は太さを持たないものとして定義されているので、それは現実には存在しない(ちなみに、僕の大学の画像処理の先生は「現実世界でいちばん点光源に近いものはなんだろう? それは星の光だ」と言っていた。超ロマンチック)。現実に太さを持たない線は書くことができないので、三角形の内角の和は180度にはならない。本来なら解の存在しない二次関数の答えも複素数を導入することによって論理的な答えはでるが、もちろんそんな数字は現実的には存在しない。けれど、数学によって僕らは物体と物体がどういうふうに動くかを実際にその物体を動かすことなく知ることができる。「時間が流れている」というのも実は数学的な概念(ということは言語的な概念)にすぎない。というのも、時間や空間というのは人間が勝手に規定したものにすぎないからだ。アインシュタインによって時間や空間が一定でないことが証明されたが、おもしろいのはアインシュタイン以前には時間や空間が一定だと信じこまれていたことで、そして証明してからも僕らはおそらく言語的慣れから一定だと信じきっていることだ。ホーキングという人は「宇宙の誕生には虚数時間が流れていた」などと言っているが、とにもかくにもまったくわけがわからないしそろそろ知ったかぶりオーバーヒートなのでやめたい。数学もときどきはおもしろいのだ。
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柄谷行人は「隠喩としての建築」のなかで「ゲーデルの不完全性定理」について言及している。「ゲーデルの不完全性定理」というのは「ある公理系が無矛盾であるときにその公理系が無矛盾であることを証明できない」という定理らしい。つまり僕らは「2+2=4」になることを知っているが、実はそれは「2+2」が「=4」になるように恣意的に公理を決めているからそうなるだけで、「2+2=4」が正しいかどうかはその公理のなかでは本当にはわからない、という理論らしい。柄谷行人がおもしろいのは、これが「数学が言葉で成りたっているから生じる矛盾」だと言ったことだ。考えてみれば量子力学では粒子は量子と波のふたつとしてのふるまいを持っているし、これが僕のなかで矛盾として写るのは粒子と波がちがうものとして名前をあたえられているからかもしれない。
知ったかぶりがすぎるが続ける。「ゲーデルの不完全性定理」が興味深いのはそれが現代美術や現代文学や現代音楽などと呼応しているということだ。ピカソやブラックらのキュビズムはメタ的な次元を意識していると言えるし、ジョン・ケージの「4'33」もメタ的な音楽だと言える。カルヴィーノ「冬の夜ひとりの旅人が」に代表されるメタフィクション文学は言うまでもない。そもそも現代芸術は既存の体系の解体であったはずだ。既存の積みあげたきたものにたいしてその公理をいったん破壊すること、音のない音楽、既存のトイレにサインを書いただけの「泉」、絵だけの小説、そのどれもが数学の公理を解体した「ゲーデルの不完全性定理」に呼応しているように僕には思える。
エラリー・クイーンは「ゲーデルの不完全性定理」をミステリに応用した。それは「後期クイーン問題」やら「操り問題」だとか言われている。これもくわしく知らないが、かんたんに言えば「探偵は論理的な方法で見つけだした犯人が正しいかどうかを証明することは絶対にできない」というミステリが内在的に抱えている矛盾だ。たとえばある犯人を指し示す証拠を探偵が見つけたしても、その証拠が真犯人によって用意された偽の証拠であるかどうか判別できない。何故なら、その偽の証拠が偽の証拠であると証明するにはまたべつの証拠が必要であり、しかしその証拠がまた本物であるかの証明も必要になってくるからだ。「操り問題」も同じもので、探偵が犯人を見つけたとしても、その犯人がべつの真犯人に操られて犯行を犯したという証拠はないし、またさらに犯人を操っていた犯人を誰かが操っていたという可能性も捨てきれず、論理的に考えた場合その犯人が本当に犯人であるかはそのミステリの枠内では証明することができない(言い換えれば、探偵は犯人特定のための証拠をすべて集めたかを証明することができない)。これを解決するにはメタ設定を使えばいいが、メタを使えばメタにたいするメタを考えなければいけないのでけっきょくはいたちごっこが続く。エラリー・クイーンなど一冊も読んでいないが西尾維新の初期作品や麻耶雄嵩「夏と冬の奏鳴曲」、小川勝己「眩暈を愛して夢を身よ」などにはどっぷりはまっていた。
「後期クイーン問題」はともかくとして、柄谷行人は「ゲーデルの不完全性定理」を重要な問題だととらえた。それは数学だけがはらんでいる問題ではなく、言語というものが根源的にはらんでいる問題だと指摘した。この世界は無矛盾ではない。この世界には無矛盾な基礎などない。「ゲーデルの不完全性定理」はそのことが数学のレベルで表層化してきただけの話であり、我々はまずこの基礎なき世界、基礎なき社会を受けいれるべきだ、と。世界、すくなくとも人間世界の根源である「言語」が完璧ではないように、世界は完璧ではない。この社会も国家も完璧ではないし、完璧になることはできない。僕らはまずそれを認めるべきだ。
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言語を持たない人間がどういうふるまいをするのか、実は僕らはくわしく知らない。しかし人間が言語的な動物であることを示す楽しい一例が片岡義男「日本語の外へ」に載っている。狼に育てられた狼少年の話だ。人々は保護した狼少年を人間的にしつけようとする。しかし彼はコップで水を飲むこともできない。
水の入ったひとつのコップに対する好奇心も、彼はほとんど示さない。無理にコップに手を触れさせてみる。コップは倒れる。なかの水がテーブルに流れ出る。彼は驚いてあとずさり、ただおびえるだけだ。
狼少年は川に顔をつっこんで水を飲むことはできる。けれどコップから水を飲むことはできない。何故なら彼は「コップ」という言葉も「水」という言葉も知らないからだ。彼には「水」と水を結びつけることができず、その結果「水」におびえてしまう。水が彼にとって必要なことだという意識は動物的感覚で彼は身につけている。しかし「水」は彼にとって未知のものだったのだ。「水」と名づけられた水を彼を飲むことはできない。
僕らの世界は、行動は、思想は、思考は、言語によって成りたっている。実際はそうじゃなかったとしても、すくなくとも僕らはそれをあたりまえのように受けとりすぎ、無自覚でいるほどにはなっている。
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小説を読む、詩を読む。文学を読んで何の役にたつのか。もしかりに本当に世界が言語を基調として成りたっているのなら、おそらくはもっとも言語というものに敏感であり、言語について考え、言語の多様性を開いてきた文学を読むことは世界そのものにふれることになりはしないだろうか。
すくなくとも人間をもっとも寛容に受けいれてきたのは文学だと僕は思っている。カミュは「異邦人」のなかで「太陽のせいだ」と言いながら人を殺した男を描き、ジャン・ジュネは「泥棒日記」のなかで「わたしは今でも、人間であろうと物質であろうと、最も卑しい砕屑(くず)に向ってやさしく微笑みかけることができるようになった、わたしがわたしの母の顔の上にたれ流すことを夢みた唾液やげろにさえ、諸君の排泄物にさえ、優しく微笑みかけることができる……。」と書いている。バタイユはおしっこをひっかけあって喜ぶ男女の倒錯的な性を描いた。
思考するということと行動すること、そこにどれだけの差異があるだろうか。僕らは多くのことを考え、多くのことを想像してきた。カミュが実際に人を殺していなかったとしても、すくなくともなんの理由もなく人を殺すことを想像できるように僕らはなったということだ。それならば、重要なのは僕らはまずそれを受けいれることだ。それが重要だ。ものごとを受けいれるというのは非常に難しい。けれどすくなくとも僕らはそれを想像できる人間になったのだし、そういう人間性を備えていることに目を開くべきだ。
道徳的ではない。道徳というのは「社会的な定められたおおきな価値観」でしかない。大昔に誰かが言ったはずだ。
「人を殺すのはよくない」
しかし、それはやはり誰かの言葉でしかない。それを自分の言葉として獲得できることも、できないこともあるだろう。それは自然なことなのだ。
「人を殺すのは良いことだ。邪魔で低俗な人間は次々と殺していくべきだ。そうすれば世界はとても豊かになるだろう」
大昔に誰かがそう言ったとする。そしてそれがかりに多くの人に支持されたとしたら、今の道徳観はまるで変わったものになっていたのかもしれない。そういう可能性はあったはずだし、すくなくとも僕らはそういうことを想像できる状態にはある程度には道徳に疑いを抱いている。
宗教や道徳に疑いを持つのはあたりまえだ。キリスト教は現世での苦行を美徳とした。睡眠欲、性欲、食欲。人間の三大欲求もまた悪徳とみなされる。寝てばかりいるよりも働くことが推奨され、性的なものは子供の目の届かないところに追いやられ、食べすぎは不摂生だと罵られる。うがった見方をすれば神話も苦行に意味づけをしそれに耐えやすくしようとするものにすぎない。神話を政治抜きで語ることはできないらしい。たとえば上流階級の一部の人間が大多数のプロレタリアートを文句なく働かせようとするならばこのような道徳や宗教の定義は非常に有効なものだと思えるが、もちろんそんなかんたんな話ではないだろう。僕はその点についてかぎりなく無知に近いので、ここで言及することは避ける。
非道徳的な文学を読んだからといって非道徳的な人間になるわけではない。すくなくとも人間の多くの面を知る上で文学は非常に有効だ。あらゆる価値観がある。それはまず存在する。存在してしまっている。ならば今僕らがやることはそれを受けいれることだ。
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続きはいつか。




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