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斜陽

2008.08.03(02:02)

斜陽 (新潮文庫)斜陽 (新潮文庫)
(1950/11)
太宰 治

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「斜陽」は「闘争」の話だと僕は思った、もっと言えばそれは「闘争できない」ことについての話だと思った。「斜陽」を読みながら僕は何かに似ていると思いようやっとサリンジャーに似ていると思いあたる、太宰はサリンジャーよりもずいぶん先に行っていて、言うなれば太宰の言葉は「崖から落ちる子供たちを救う」という無様なことしかできないホールデン・コールフィールドへのあてつけであるのだ。
村上春樹の時代がかつてあった。「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」には少なくとも「何かが存在するのではないだろうか」という不確かな根拠があったが、「ダンス・ダンス・ダンス」ではそれがけっきょくは「文化的雪かき」に終始し何事もないという証明を果たした。何もない、僕らは生きられはしないのだし、文学もできない、青春もできない、闘争もできない、しかしながら現代はそれを覆い隠しあたかも何かができているかのような錯覚を生みだしつづけている。そしてけっきょく作家もそれにいくらか加担し、いくらか暴き、迷いつづけている。
「何もできない」時代に僕たちはいて、作家たちはそのことを知り、くりかえしくりかえし書いてきた。古くは太宰治の「斜陽」、そして後に庄司薫の「ぼくの大好きな青髭」、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」、学生運動という「闘争」に村上春樹は冷淡な態度をとり、積極的に「闘争した」高橋源一郎は後に「私たちは大学を破壊することに夢中で大学がどういうものかということは知らなかったのです」と語る。「闘争」は不在だ。

 人間は、みな、同じものだ。
 これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆い、世界を気まずいものにしました。


人間がみな同じならばそこに闘争など必要ない。だがときにそれを不幸だと感じる人間がいて、たとえばそんな人間にとってこの世界はどうしようもなく気まずい。





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