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ストーカー@神保町シアター

2008.08.10(01:14)

ストーカーストーカー
(2002/12/16)
アレクサンドル・カイダノフスキーアナトーリー・ソロニーツィン

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神保町シアターに行き「アンナ・カレーニナ」とタルコフスキー「ストーカー」を見た。本当は「ストーカー」だけ見るつもりだったのだが受付でお姉さんに「『アンナ・カレーニナ』のチケットをお求めですか?」と言われ何故か「はい」と答えていた。本当は「ストーカー」のチケットだけ買って上野に行きコローの絵でも見てくるつもりだったのだけれど、上野までもどるのが正直めんどうくさかったのと電車代も無料じゃない。
「ストーカー」の回は普通に空席がありわざわざ前もって買っておくことはなかったと後悔したが「アンナ・カレーニナ」もなかなかおもしろかったので問題はない。

   ◇◇◇

問題はタルコフスキー監督の「ストーカー」でこれが異様なくらいにおもしろかったので「アンナ・カレーニナ」について何か言う気も失せる。たとえば一瞬一瞬の映像を写真として切りとりいつまでも眺めていたい、とでも言えばその美しさはほんの少しでも伝わるだろうか。タルコフスキー監督の映画は美しい、僕がいちばん美しいと思っている映画は同監督「ノスタルジア」とエリセ監督「ミツバチのささやき」だが、どちらも2、30年の映画である。
映像技術は発達しているはずなのにこれより美しい映画は僕の知るかぎり存在しないというのはなかなか重要なことだと思う、自然の情景を美しく撮るという方法論を現代の監督が知らないとしたらそれはなかなか悲しいことだ。これは昨日スメタナ「モルダウ」を聴いて思ったのだけれど、昔の人は音に自然の情景を織りこむことができたのだ、それは芳醇な自然を詠ったリルケも同様で、現在の映画・音楽・詩にはこれらのことはほとんど要請されずまた実現しようとしてもほとんど不可能に近い。僕らが撮るのは溝臭い町と汚れた社会、しかもそれをシニカルに描くことしかできない、それを「現代的」だと言うのは正しいことは正しいがどことなく虚しい思いだってあるだろう。
「ストーカー」が示すのは何もないということだ。設定はある。「ゾーン」もある。ただし幸せを請う祈りはうやむやのうちに消え果て、残るのは汚れた湧き水にも似た感情だ。何回も言っているが僕らには何もない、僕らは例外なく持たざるものであるが、感情だけはある。ただ感情というのはいつも悲しい。悲しい映画だ。

   ◇◇◇

話は変わる。
悩みを持っていない人間なんていない。先生は生徒によく「何か悩みがあれば何でも相談してね」などと言うが、それは正しくは「きみは悩みを持っているだろうけれど、そのなかで先生に話していいと思う悩みがあったら聞かせてね」ということになる。ただし悩みはあるがそれが生きていけないレベルに達することはそうそうないし、人間はそれをごまかす能力だけは持っている。そして人間は例外なく秘密を抱える。それは極めて正しいことで、ひとつの「折り合い」でしかない。その「折り合い」によって人は苦しむのであって「折り合い」のつけかたが上手い人は器用な人下手な人は不器用な人であり、そんなことで人生の苦しさが変わるのであれば理不尽なことだなと思う。
自分のことを正常だと思っている人間は少数派だろう。みんな自分のことを「まともな人間じゃない」と思っているはずだ、ただそれを口に出すナルシストはもっと少数派なのだと思うけれど。
心にぽっかりと空洞が開く。それはぜんぜん特別なことじゃない、月でも飲めばいい。

   ◇◇◇

ドーデー「アルルの女」を読み終える。心身ともに健康な若者も恋で死ぬ。




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