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ハッピィバースディ、チルドレン。

2008.09.09(06:13)

 僕は今まで読んできた本見てきた映画について、結局のところ、すべて忘れたいのだろう。すべて忘れたふりをしたいのだろう。きれいさっぱり、その記憶を抹消するのではなく、僕は僕が知る限りもっとも美しいかたちでその記憶を抹消し、過去という小箱のなかに緑色の葉を飾りしまっておきたいのだろう。
 大切。
 僕は常に「それ」をそう呼び、何か大事なことが起こったとき、生活において僕の気にかかった事柄に対応させてそれを慈しみたい。「それ」がそこにあるとき、僕はいつも前に進めないのだ。そこにあるものはそこにあるだけで僕の意識に入りこみ、僕を雑にする。だから僕はそれを御伽噺にしたいのだ。湖水のほとりの過去にしたいのだ。

 棒を持ってこい、
 きみが手にとればいい、
 きみが僕の頭を殴ってやるのだ。
 そうしたらば、
 僕は精一杯きみを嫌がるだろう。


 僕の詩や散文や小説がもしつまらないのならば、それは僕の詩や散文や小説に魂がこもっていないからだ。とてもシンプルなことだ。人間性のかけらもない、小手先だけで書いたものだ。愛がないのだろう。愛がないのだ。魂の肥えた猿だ。
 僕はどんな文章だろうが気軽に書いている。責任や苦しさなんてない。書いた事柄から僕の魂は剥離しないだろう。それは責任や苦しさをすりつぶしながら文章を書いている人を侮辱する行為なのだ。
 人間性について、僕は何も言えない。何故なら僕は僕の人間性についてどんな文章だろうが――日記だろうが、詩だろうが、小説だろうが――そこから巧妙に排除してきたからだ。それは今も続いている。
 世界には、おそらく自己の人間性を滲ませないと文章を書くことすらできない人がいる。僕はついぞその方法を知らず文章を書いてきた身だ。だからそのことを羨むが、「単純に羨む」ということはその苦しさ――人間性を滲ませた文章を書くことは苦しいに決まっている――をまったく否定しているに等しく、つまり侮辱なのだ。だから僕はそれを言わない。

「あなたになりたい」

 心のうちでそう思いながら、「あなたになった」ときに受ける苦しさが怖くて、言葉にできない。
 書評や映画評なんてもう書きたくないと言ったのはもちろんさまざまな要因があるけれど、いちばんに小手先だけでものを書いて自分や読む人を騙したくないと思うからだ。真正なものを書きたいと思うのだ。真正な詩を、真正な日記を、真正な文章を! 
 そこにいかに醜い自己が投影され、それが明け方の火のような恐怖だとしても、僕は最近、本当に書かれるべき文章はそれだけだと思うのだ。感情が欲しい。魂をすりつぶすべきなのだ。愛を。

 ハッピィバースディ、チルドレン。




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