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映画のポケット Vol.13

2008.09.29(02:40)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)フラニーとゾーイー (新潮文庫)
(1976/04)
サリンジャー野崎 孝

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冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)
(1995/10)
イタロ カルヴィーノ

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朝奇跡的に6時半に起きることができ、銀座シネスイッチの10時の回、アルベール・ラモリス「白い馬」「赤い風船」に間にあう。
「白い馬」は暴れん坊の白い馬がぱっかぱっかと暴れまくり、殿様や狩人たちを次々と踏み殺していく映画だ。数えていたら実に528人もの人間が死んでいた。しかし白い馬にも事情がある。悪い大人たちにさんざんいじめられたからこそこんな人を踏みつけるのが生きがいみたいな馬になってしまったのだ。馬は森で罠にかけられたところを少年に助けてもらい、少年に心を開く。少年は調子に乗って馬をのりこなし「きゃっほーい!」とフランス語で絶叫するのだが、やがて邪悪な心をとりもどした馬は少年と一緒に海に入って溺死する。映画のつくりとしてはサイレント映画に近く、台詞はほとんどなくナレーションと客観的な映像でひたすら進んでいた。
「赤い風船」は意志を持った風船と友達になった少年が風船に助けられながら花屋さんの手伝いをしたり学校をさぼったりいろいろわんぱくする映画だった。しかし少年はだんだん調子に乗りはじめ、怒った風船は勢いあまって少年を空高く吊るして窒息死させてしまう。街の背景など50年代の映画なのに息を呑むほど美しく、一見の価値があるだろう。

その後11時50分からターセム監督「落下の王国」を見る。「落下の王国」はおもしろいのでちゃんと書く。この手の映画はきっと多くの人にスルーされる気がするので目いっぱい褒めなくてはいけない。予告編を見る限り「かなり見やすくなったパラジャーノフ」というイメージを抱いていたが、その内実は全然違い、純然たるエンターテインメントファンタジー大作だ。「ロード・オブ・ザ・リング」が好きな人はおそらく楽しめるはずだし、アジアンテイストをとりいれた色彩感覚はそこらのファンタジー映画ではなかなか見ることができないだろう。
これは足を失って入院した男が少女の気をひくために壮大な叙事詩を語る映画だ。その語りの部分がファンタジーとして挿話されるのだけれど、途中、今敏的な手法のメタフィクションとなり一筋縄にはいかない。しかしメタフィクションと言っても難しく考える必要はなく、カルヴィーノの「冬の夜ひとりの旅人が」のように「一度読みだしたら続きが気になってしょうがない」類の映画だ。
映像にしてもすこぶる美しく、特に遠距離からのショットがさえわたっている。砂漠に血に塗れたマスト(みたいなの)がそびえたっているシーンは特に圧巻だ。
何より泣ける。映画を見てここまで泣きそうになったのは「帰ってきたドラえもん」や「クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲」以来だと思う。とりあえずシネスイッチ銀座に急ごう。DVD化されるかどうかわからないし(さすがにされないわけはないが)、されてもすぐに絶版になってしまう可能性が高い気がする。僕は断然こういう映画を支持する。
僕は阿呆だから、なんだかんだいったってデレク・ジャーマンとかパラジャーノフとかタルコフスキーとか、あるいは今いちばん見たい小林政広「愛の予感 the REBIRTH」などの映画を支持するんだろう。
そうしてたとえば、ジャーマンの「BLUE」について「これは集中して見るべき映画ではないのだ。というよりも、この映画では見ることが要請されていない。我々がお菓子をぼりぼり食べたり爪を切ったりしながらこの映画を見るとして、つまり、その見ているあいだ私たちが考えたこと、私たちがしたこと、それがすべて映画となるのだ。ジャーマンは『映像』という映画にもっとも大切なことを抹消することで、『映画』という言語概念を逆説的に拡張したのだ。しかしこれはこの映画を集中して見ることができない間抜け者の言いわけにすぎない」とかなんとか一生言いつづけるんだろう、というのはなんだかとても嫌なことに違いない。


   ◇◇◇

東京都美術館に「ヴィジョンズ・オブ・アメリカ」を見にいったら、間違えてSONYのカメラの展示会みたいな会場に入ってしまう。受付でパンフレットを笑顔で手渡され、「どうぞこちらへ」と案内される。会場は人でごったがえしモデルらしき女の人の撮影会が会場内のカメラを貸しだして行われている。部屋の隅にはカメラのレンズなどが展示されているがそんなもん見てもおもしろいわけがない。ちちんぷい。30秒で本当部屋から出たくなったがそれで出たらスタッフに「何こいつ?」と思われること間違いなしなので出るに出られず5分くらいカメラのレンズを見てふむふむとわかったふりをした後、ようやく脱出を果たす。
ようやっと東京都美術館の入り口にたどりつき、アメリカを写した写真を見る。感想は特にないが、わりとおもしろかった。
その後「映画のポケット」に参戦する。他人のありがたい忠告を聞かずにとんでもない位置に座ってしまったために資料が鋭角的にしか見えず、岡田茉莉子様のお顔も若尾文子様のお顔もぐにゃんぐにゃんとゆがんでいた。

   ◇◇◇

ターセム「落下の王国」がとてもおもしろかったためにその布教につとめようと思うが、電車のなかで読んだサリンジャー「フラニーとゾーイー」の特に「フラニー」が鳥肌が立つほどおもしろいのでそっちの布教をしようと思う。そもそも「フラニーとゾーイー」を読むのはたぶん3回目なのだが、僕の脳は小鳥の糞並みの能力しかなくまったく内容を覚えていなかったのでとてつもなく楽しむことができた。
1ページごとに泣きたくなる小説が「フラニー」以外にあるだろうか。僕は知らない。ずっとしかめっ面で読んでいた。1ページごとに自分の醜さが露呈され、無闇と祈り、許しを請いたくなる。フラニー。




コメント
こんばんは。harufarです。
たくさん映画を見られているのですね。

「フラニーとゾーイー」は、私にとっても一枚一枚が重い小説です。
「フラニー」篇では泣きました。次の「ゾーイー」では、全く別の意味で泣きました。
フラニーはエゴを忌み嫌いそれに破壊されながら、実はエゴそのものだったからです。彼女が痛いほど分かる私は彼女自身だったのでしょう。
そこから抜け出せなかった辛苦を知っているから晴也さんも泣いたのだと思いました。

「つまり、きみは、彼らが象徴しているものを軽蔑するだけじゃない―彼らそのものまでを軽蔑するんだ。それでは人身攻撃にすぎるよ」
「シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ」

手元にあったので、ぱらぱらと読み返してみました。
色々線が引っ張ってあるけれど、この二つには特に太く線が引いてありました。

彼女の奮闘がいとしくて、またその焦げ痕を知っています。自分のように痛々しい。
いろいろことを思い出しました。ありがとうございます。
もう一度じっくり読み返してみようかな。

長々と失礼しました。
【2008/09/30 02:16】 | harufar #- | [edit]
こんにちは。コメントありがとうございます。

ひねくれものなので、昔「小説は共感して読むものではない!」とか言っていたのですけれど、それはともかく、サリンジャーと太宰はやはりどうあっても感情移入してしまいます。
「ゾーイー」のほうはゾーイーがやっとお風呂から上がったところなのでまだなんとも言えないのですけれど、「フラニー」は1ページ1ページ痛々しくて、どうしようもない気持ちになりました。
フラニーは何か悪いことをしているわけではないと思います。彼女の感じるエゴというのは人間としてどうしようもないものであって、言及すればするほど自分を苦しめるだけなのに、言及せざるをえない。
たとえば、文章を書くことはたとえようもなく醜いことでもあると思います。本当に良きことをしたいなら「何もしなければいい」、だけど何かしなければ(言葉をつむがなければ)生きられない一種のジレンマのようなものが、誰にでもあると思います。「フラニー」はそこをぐしぐしついてくるように感じます。
太宰に通じる、「誠実さ」「本当のこと」の希求。の苦しさ。ではないかと。

ゴダール監督の「アワーミュージック」という映画をご覧になったことがあるでしょうか。
その映画で、夢か何かで「マリア様を見た」という女の子のエピソードが語られます。まわりの大人たちはラファエロなどが描いた美しいマリアの絵を何枚か見せ、「マリア様はどんな姿をしていた?」と訊きます。女の子はいちばん汚く下手くそなマリアの絵を指差して、「この方がマリア様です」と言うのです。
「フラニー」とたぶん関係ないですが、「フラニー」にはどこかこのエピソードと似たようなものがあるように感じて、ちょっと思いだしていました。
【2008/09/30 15:01】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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