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ショットガンズ・ホライズン

2008.10.13(21:42)

愛の予感“THE REBIRTH”愛の予感“THE REBIRTH”
(2008/06/27)
小林政広

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 少しだけ、涙もろくなっている気がした。と言っても、相変わらず本を読んでも映画を見ても音楽を聴いてもなくことはない。ただエリセの「ミツバチのささやき」や「エル・スール」などを見て感動してしまったことは事実だし、今日、小林政広の「愛の予感"THE REBIRTH"」を見て一瞬不覚にも泣きそうになってしまったこともまた事実だった。泣くところなんてひとつもないのに。
 地獄のような無限ループの退屈極まりない映画で、台詞も最初と最後しかない。こうやってつきつめた映画はもはや現代では玄人の目に悪く、ロカルノ映画祭がどうだと言っても、ほとんどの場合黙殺されてしまう。だからこれは僕が褒めなくてはいけない。

「ここには僕がうつっている」と思うのは、おそらく重要なことだと思う。
「わからないということは貴いことなのだ」
 と僕は何度も何度も言った。しかし、それ以上に、
「相手をわかろうとすることは貴いことなんだ」
 と今は思える。
 コミュニケーションを成立させようと努力することでコミュニケーションの不在をようやっと嘆くことができる、でも「あきらめてしまった」としたら、コミュニケーションが存在するとか存在しないとか、そういった芸術的な価値観に到達する前のいちばん基本的な部分が壊れてしまう。
 何故彼らは会話をしようとしないんだろう、それはたんじゅんで、彼らが孤独だからだ。孤独だから会話をしない、本当にあたりまえのことで、でもそれは村上春樹じゃないけれど空気中に浮いている塵のようなもので、僕は日々知らないあいだにそれを吸いこんで、ちょっとずつ孤独を麻痺させていく。会話をしないから孤独を装うことができる。

「親は娘のことを全部わかってなきゃいけないんですか?」
 同級生を殺した娘を持つ母親は言った。
 思うに、
「社会的なゆがみがこのような悲劇を生むのですね」
 なんてことを深刻に言うことができる人たちが、この世界をちょっとずつ悪くしていて、でもそれは、きっとすべての人間に責任があって。大事なのは、たとえば、ネットカフェ難民を生んだ社会状況や経済状況だけじゃなくて、ネットカフェ難民がどういう気持ちでいるのか、そういうことで。だから深刻なのは、彼らの気持ちを表現するための言葉(映像、音)を僕らが持っていないことで、そしてもっと深刻なのは多くの人が本当にそれに耳を傾けようとしていないことだ。
 ジェニファー・バイチウォル「いまここにある風景」の予告編で、
「"自然破壊だ"と訴えれば、人は賛成や反対をするだけだ。逆に言葉にしないことで、人は見えなかった何かや違う世界を見られる。良いとか悪いとかの問題じゃない。全く新しい発想が必要なんだ」
 という言葉がある。
 本当の話、僕らはある問題に対して賛成や反対をしてばかりで、その問題について考え、あるいはそれをただたんに見つめることだけはしない。
 僕は以前、
「その物事を本当にただ見つめるときにだけ、もっとも想像力が必要とされる」
 と書いた。ある物事に対して賛成や反対をするのはかんたんなのだ、籤でも引けばいい。そしてある物事に対して何か言うのも実はかんたんなのだ、他人の言っていることをそのまま言えばいい。
 本当に難しいのは、沈黙に身を委ねることだ。沈黙に身を委ねることで、ようやく「自分」が生まれ、初めて想像力が必要とされる。
「あるものをただ見る」
 ゴダールは50年も同じことを言っている。でも僕にはそれができなかった。


   ◇◇◇

「愛の予感」は今日、資料室に忍びこんでプロジェクタを使い見ていた。決して綺麗な画質とは言えないけれど、うちのぽんこつテレビで見るよりはいくらかましで、何より大きい画面というのはそれだけでいいものだ。映画祭だ。わっほい。これからは定期的に俺映画祭だ。楽しいなあ、自分好みの映画しか上映しないんだもの。
 次の上映予定は「エスター・カーン めざめの時」です。

   ◇◇◇

 リクナビとマイナビに登録しただけでげっそりしてしまった僕は、本当に就職活動を耐え抜くことができるのだろうか、いや、できるはずがない。

   ◇◇◇

 怖くて書けなかったんだけれど、井口奈己「人のセックスを笑うな」を見ているとき(具体的に言うと、松山ケンイチがひきこもったあたり)、ふと「この(映画の)世界には四人しか人間が存在しないんだろうか」と思ってぞっとした。
 だから駄目だ、とか、セカイ系だ、とか、そんなばかなことが言いたいんじゃなくて、現代の映画のもっとも優れた「シンプルな部分」として「人のセックスを笑うな」はあって、そのリアルのなかにある「狭さ」を痛感して、怖くなった。
 あの映画のなかに四人しか人がいないんだったら、じゃあ、僕の世界には何人の人がいるんだろう。




コメント
コミュニケーションをとることをあきらめたら芸術的な価値に到達しないって芸術ってその程度のものなんですかね。

そんなんだったら、話の通じる相手ばっかりだったら、芸術って存在しなくてもいいことになっちゃいますよ。
【2008/10/17 01:21】 | nanashi #- | [edit]
口下手な人や、あるいはこの映画のなかの人のように何かに絶望して他人と口をきかず、物理的にうまく会話ができない人もいます。
そして、もし表面上上手に会話ができたとしても、もしかたら、本当のところ相手は自分の言っていることをぜんぜん理解していないかもしれない、自分も相手の言っていることをちっとも理解できていないのかもしれない、という「疑問」や「不安」に、僕は芸術が特に強く関係しているのではないか、と思っています。
と、このように、会話(コミュニケーション)を便宜的に二段階にわけるとして記事を書きました。

芸術にはいろんな側面があるでしょう。「美意識の表現」だったり「金儲け」だったり「政治的・社会的メッセージ」だったり、さまざまです。
でも、僕にはよくわかりません。それらすべてを含めて芸術と呼ぶべきとも、コミュニケーションに関することを芸術と呼んでさしつかえないとも思えます。

>コミュニケーションをとることをあきらめたら芸術的な価値に到達しないって芸術ってその程度のものなんですかね。

到達しないのではないでしょうか。逆に言えば、コミュニケーションというのはその程度のものなのでしょうか。他人とコミュニケートしようという欲求は何より貴いと僕には思えます。

>そんなんだったら、話の通じる相手ばっかりだったら、芸術って存在しなくてもいいことになっちゃいますよ。

心配しなくてだいじょうぶだと思います。「話の通じる相手ばっかり」というのは幻想だと思います。
【2008/10/18 01:31】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
> 表面上上手に会話ができたとしても、もしかたら、本当のところ相手は自分の言っていることをぜんぜん理解していないかもしれない、自分も相手の言っていることをちっとも理解できていないのかもしれない、という「疑問」や「不安」

私はこういう風に感じることはありません。理解していないだろうという「確信」と理解しているだろうという「確信」ばかりがあります。

それでも自分なりに芸術(というか本)と付き合っていきたいと思います。
【2008/10/18 14:52】 | nanashi #- | [edit]
僕は逆で、何事にも「確信」を持つことが極めて少ないのかもしれません。

それでも、やはり僕は僕として、下術と付き合っていくのでしょうけれど。
ありきたりな言葉ですが、けっきょく、芸術との付き合いなど人それぞれ違うものだと思います。
【2008/10/18 21:57】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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