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鳥が落下し死骸が矢印を表現する真夜中

2008.10.22(03:43)

ニッポンの小説―百年の孤独ニッポンの小説―百年の孤独
(2007/01)
高橋 源一郎

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 句読点をつけることによって、文章はリズムを獲得したり意味を獲得したりする。詩や俳句に句読点がついていないのは、その鎖からの解放の意味もこめられているのだろう。

 古池や蛙飛び込む水の音

 残念ながら僕が知っている俳句はこれくらいのものだけれど、たとえば、この俳句に句読点をつけようとしたらどうだろう。

 古池や! 蛙飛び込む、水の音。
 古池や。蛙飛び込む、水の音。
 古池や。蛙、飛び込む水の音。

 俳句にいたっては五七五のリズムがすでに獲得されているので、そもそも句読点は意味をなさない。仮に3つめのように句読点をふるとしたら、逆にリズムを破壊してしまう。
 そもそも、問題は俳句というものが「文章になっていない」ということだ。逆説的だけれど、五七五という型にはめることによって、文章という形式(呪い)から逆に解放されている。
 今のところ俳句にも川柳にもほとんど興味はないけれど、たぶん、究極の形式美としての自由さがおもしろいのではないだろうか。これを考えれば、たとえばサラリーマン川柳とかOL川柳とか、型にはめて社会や職場を皮肉るのも、なんだか許される気がする。

   ◇◇◇
 
 こんなことを書こうとしていたのではなかった。高橋源一郎だったが荒川洋治だったかが、散文では「白い屋根が並んでいる」と書くところを詩では「白が並んでいる」と書くかもしれない、というようなことを言っていた。
 もう絵画に近い。絵画でもし風景を書くとしたら、決して「白い屋根が並んでいる」ようには書かず、「白が並んでいる」ように書き、それが結果として「白い屋根が並んでいる」ように見えるのだ。それはもしかしたら絵描きも意識していない空白のプロセスかもしれないけれど、もし絵を描くという行為を本質的・物質的にとらえるならば、やはり並んでいるのは白で、描かれているのは白なのだ。白い屋根ではない。
 ゴダールの言うように、僕らが「ものごとをありのままに見る」というこを実践しようとするとき、そしてそれを表現するとき、僕らはいったいどんなふうにものを描けるだろうか。

鳥が落下し死骸が矢印を表現する真夜中、飢えた青色の寝袋の下のもぐらが自らの目を突いている。きみは死を失った飛行機でこの土地にやってきた、ゆっくりと存在を消失させ、もうひとつの幽霊をあちらに残したまま、黒鍵を持って。

 これは今僕が書いている途中の詩の一部だ。問題は一行目の「鳥が落下し死骸が矢印を表現する真夜中」という箇所で、僕はべつだん何も考えず「表現する」を使ったけれど、実際の現象としては鳥の死骸は何も表現していない。もし鳥が矢印をつくる意思を持って落下して死んだのだったらこれでも許される。しかし、僕がもちろんそんなことまで考えて文章を書くはずもない。つまり、ここに描かれた「表現する」という文章は僕が頭のなかである明確な意志を持って秩序だてた言葉、散文なのだ。この書きかたは詩の書きかたではないかもしれない。

   ◇◇◇

 やめようと思っているけれど、無意味な数字が好きだ。

〈四番目がきみには足りない。血を吸った破片を読んだことが〉

 オフィーリアの二枚目

 二言目だけが日常に怖く

 独白の調子で続ける薮睨みが九分後に実を結び、

 何度も書いてきたけれど、何かを書くということは、同時に何かを書かないということだ。何かを書くことだけが書かれえなかったものを浮かびあがらせる。人を嘘をつくとき、「嘘をつきたかった自分」をさらけだす。一番目も二番目も三番目も一枚目も一言目も八分間も、とっくに失われてしまった。もし僕らに何か見えないものがあるとしたら、何かを書くしかない。





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