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装う場所に生まれた。それから、

2008.10.28(06:52)

純粋培養閲覧図 (花とゆめCOMICS)純粋培養閲覧図 (花とゆめCOMICS)
(1997/06)
望月 花梨

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 日曜日は夜の八時に眠りました。そして月曜日の午前三時に起きました。僕は詩を書きました。とてもとても、なんてことない詩です。それから僕は眠りました。朝の十時に起きました。荷物が届けられたからです。吐き気がするぐらいに眠く、僕は俄然不機嫌でした。荷物を受けとってまた眠りました。起きたら午後一時でした。何もかもがけだるく、暑い日だと感じました。お昼ごはんを食べました。望月花梨の漫画を読み、そして眠りました。起きたら午後の六時でした。世界のあちこちがぽろぽろと剥がれおちているような気がしました。僕はまた眠りました。午後の八時半でした。雷雨でした。降りしきる雨音と雷の音を僕は聞きました。それから僕はアルバイトへ行きました。そして部屋に帰りつき、散漫を悼みながら、これを書いています。

 眠りつづけることで、僕は僕のなかの何かが死んでいくのを感じます。それは美しいことではありません。明日には回復するでしょう。僕はいつも回復します。それがとてもうれしいのです。

 僕にはよくわかりませんが、現代の文学には常に「遠さ」が付きまとっているということです。今日の讀賣新聞にそう書いてあります。「ネットやゲームの仮想世界と現実が併存する現代」と書いてあります。「ヴァーチャルとリアルを行き来することは、現代に生きる人々には日常になっている」と書いてあります。
 僕は以前、「映画を見ることや本を読むことは空想に触れることである、という物言いがよくわからない。だって、映画や本に触れている行為や瞬間は、まぎれもなく現実じゃないか」と書きました。
 現代に存在しているのは現実だけです。インターネットがここまで世界に影響を与えるのは、それが現実だからです。今僕らの世界に起こっていることは、「ヴァーチャルとリアルの区別がつかなくなっている」ということなのでしょうか。ところで、本が生まれたとき、それは「ヴァーチャル」だと弾圧されたのでしょうか。僕はよく知りません。
 僕はこういうのを読むといつも落ちつかなくなります。ここに書かれていることがどうしようもなく間違ったことのように思えてきます。何故人はこういう物言いをするのでしょう。何故人はまるで僕が出来損ないのがらくたであるかのような物言いをするのでしょう。このような物言いはいつも僕を傷つけます。
 僕のブログやmixiの日記は他人にとってヴァーチャルでしょうか。僕にはよくわからないのです。おそらく僕らは「装う」ことを始めただけです。人々はヴァーチャルの世界に入りこみはじめたのではなく、装う場所を獲得しはじめただけです。僕は装うことだけは、かっこうつけることだけはうまくなりました。そしてそうすることで僕は僕を傷つけ救ってきました。僕はいつもいつも装ってかっこうつけて、人々が「ヴァーチャル」と呼ぶ場所で過ごしてきました。そしてそれを人々が「リアル」と呼ぶ場所に反映させ、苦しんだり喜んだり悲しくなったりしてきました。そうやって二十三歳になりました。
 何かがひどく間違っている気がします。しかしそれは言語化できないものです。だから僕はまたかっこうをつけるのです。
 装うという行為は切実な現実です。嘘をつくとき、嘘をつきたかった自分をさらけだします。同時に何かを装うとき、何かを装いたかった自分をさらけだします。そこに発生する心が現実ではないとしたら、それはひどく、傲慢であると思えます。

   ◇◇◇

 上の話とはこれっぽちも関係ない(上のようなことを思うのは、もっと違うタイプのブログを読むときだ)ことを誓った上で紹介します。ふたつぐらいしか読んでいませんが、このブログがすばらしいと思います。舞城王太郎が好きな人はどうぞ。

 http://blog.livedoor.jp/mikako0607jp/




コメント
なぜ<「装う」ことを始めた>のでしょうか?

なぜ、<それを人々が「リアル」と呼ぶ場所に反映させ>るのでしょうか?

私は文学をほとんど読みません。上の問いに文学を読んでいる人の回答を聞きたいです。
【2008/10/28 20:34】 | おめ娘。 #tg.ia9sc | [edit]
初めまして


プロフィール欄に書いてある

ある売れない芸人が、支配人に言った。
「絶対に観客に受ける芸を思いつきました」
支配人は言った。
「ほう。それはどんなものだい?」
「舞台の上で首を吊るんです」
支配人はしばらく考えたあと、こう言った。
「だけどきみ、その次の日はどんな芸をするんだい?」

て誰の言葉ですか?
おお~って思ったから気になったw
【2008/10/28 21:51】 | 火柱基次 #ihkeWA6A | [edit]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
【2008/10/29 03:32】 | # | [edit]
少なくとも今の時代、本を読んだり映画を見たりするだけでは、「リアルと現実の区別がついていない」とは言われません。
それはゲームやインターネットが関わって出てくる言説だと思います。
ゲームやインターネットと本や映画の違いは、本や映画に対してインターネットやゲームが自分がそこの空間に何かを書きこむ、あるいはそこの空間で何かを演じる、ということができるからだと思います。
書くことも演じることも何かを装うことだと思います。ブログやることもそうですね。

>なぜ<「装う」ことを始めた>のでしょうか?

何故でしょう。僕にもよくわかりません。でも、文章を書くこと、何かを演じること、それは「装い」を不可避的に生じることかもしれません。
人が「装う」のは他人に見られるからです。ネットが発達して、日記などを公開できるようになりました。でも日記を公開するには、いくらか装う必要もあると僕には思えます。
世界にひとりしかいないのだったらなんでも書けるかもしれないけれど、見ている人がいるかぎり、なんでも書くわけにはいきません。
僕だって僕が本当は何をして、何を考えているかなんて、そんなことをいちいち全部書くわけにはいきませんし、絶対書きません。


>なぜ、<それを人々が「リアル」と呼ぶ場所に反映させ>るのでしょうか?

「リアル」と呼ぶ場所、「ヴァーチャル」と呼ぶ場所、なんてわざわざ書いたのは、「リアル」と「ヴァーチャル」という二元論的な考えにたいする皮肉です。
「ブログを書くという行為」が現実的であるならば、当然、日常の生活にも反映するはずだと思うからです。

僕もこの記事は理論的に考えて書いたわけではないので、「何故?」と問われるとなかなかきちんと答えられず、申し訳ないです。いろいろ考えるきっかけになりました。

以下、あまり関係ない話です。

サイゼリヤのピザからメラニンが検出され、サイゼリヤは「レシートを持っていなくても申告があればピザの代金を返金する」と言いました。
そこで高校生のグループがサイゼリヤをまわり、食べてもいないピザの代金をせしめるという事件がありました。
高校生たちは(たぶんmixiの)日記にそのことを書き、それで発覚したわけですけれど、興味深いのは、高校生のグループが日常の会話をネットに持ちこんでいることです。高校生が「ピザの代金をせしめた」ならそれを仲間内で楽しく話すのは当然で(それの是非は置いておいて)、それをそのままネットに持ちこんでいる。
少年犯罪が起きると「マンガやネットの影響が~」と言われるけれど、それはネット→現実への流入で、ピザ代金についての高校生の事件は現実→ネットへの流入と、(二元論的な話をすると)まったく逆のことが起きています。
「リアル」と「ヴァーチャル」を問題にするならば、現在興味深いのは、こういうことだと思います。
【2008/10/29 08:15】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
よく知りませんが、どこかの国のジョークらしいです。
「考える人」という雑誌の2008年春号で、池澤夏樹がジョイス「ユリシーズ」は「このジョークみたいだ」という意味で例に出していました。
少々、手をくわえています。
【2008/10/29 08:18】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
お返事は返さずにとありましたので中身については返しませんけれど、他人の言葉はいつも考えるきっかけになります。

感謝しています。どうもありがとうございました。
【2008/10/29 08:22】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
重ねて投稿失礼します。
確かに、どれが「リアル」でどれが「バーチャル」かということには意味がないと思います。私が考えるに「他者との関係性」というのがポイントなのではないでしょうか。
本や映画を楽しむときに基本的に他者は存在しません。インターネットに関しても、攻撃的な人はいますが、そのコミュニティに参加するかどうかは本人の自由です。嫌ならば去ればいい。こういった部分は、家族とか学校とか国とかいう社会とは明らかに異なった部分だと思います。

管理人さんは、確か「文学とは反社会性を持っている」という旨の発言をされたかと思います。例えば宗教という概念があります。社長も労働者もモテも非モテも男も女も、宗教の概念では信者と非信者に分けてしまうことが出来る。
頭の中で、価値観をひっくり返したり、世界の色分けを変えたりできる。読書の楽しみの一つだと重います。

ネットゲームのことは良く知らないのですが、強いキャラクターを育てている人は発言もそれなりになってくるみたいですよ。

では、一人もしくは限定された少数の閉じた世界で培われた価値観や自分の位置づけを、社会の中でどう処理すべきなのでしょう。
しょせん趣味の世界だと、家族や仕事などの広い社会とは切り離して考えるのか。あるいは何らかの形でスライドさせるべきなのか。とても大きな問題だと思います。

そして、この問題が犯罪という形をとって表れてしまったものが「『リアル』と『バーチャル』の区別がつかなくなった」と言われているというのが私の考えです。

内田樹という人が自分探しに海外を放浪する若者を評した言葉です(本が手元にないので引用は記憶によります)「人間20歳くらいにもなれば、家族や友人、職場の人などから「あなたはこういう人ですね」という評価を受けることになる。(自分探しをする人は)その評価に不満がある」
この「自分と周囲の人の評価の差」という説明がとても腑に落ちたんです。

<本が生まれたとき、それは「ヴァーチャル」だと弾圧されたのでしょうか。>とありますが、文学は「逃避」だと論じている本を読んだことがあります。
いまや、海外に行かなくても難解な思想書を読まなくても、「自分と周囲の人の評価の差」を否定することは簡単にできるようになりました。

だから、この問題を文学がどのように解釈しているかが気になっていたのです。

反社会を唱えれば何かしらの意義があった時代もあったのかもしれませんが、現在では、浅はかな反社会性では太刀打ちできないくらい、世の中は成熟していると思います。その先に何があるのかを知りたいのです。

最後に、長文失礼しました。
【2008/10/29 23:19】 | おめ娘。 #tg.ia9sc | [edit]
ありがとうございます。
長文は大好きです。

>本や映画を楽しむときに基本的に他者は存在しません。インターネットに関しても、攻撃的な人はいますが、そのコミュニティに参加するかどうかは本人の自由です。嫌ならば去ればいい。こういった部分は、家族とか学校とか国とかいう社会とは明らかに異なった部分だと思います。

そのとおりだと思います。
僕は「嫌なら去ればいい」とかんたんに言えないほどにはネットに依存していると思いますけれど、たしかに家族や学校などに比べたら去りやすい場所です。

>「文学とは反社会性を持っている」

社会とは、各人間の集合として成りたつものです。人間を団体として扱い、考えることで、当然ながらそこで少なからずの「人間個人」が抹消されることになります。
たとえば、僕は以前「いじめなんて存在しない。○○くんから××くんへのいじめが存在するだけだ」と言いました。
ただたんに「いじめ」と言うだけでは、それは社会的ないじめを指し、個人的ないじめは指しません。
そして現場の人が扱わなければいけないのが個人的ないじめであって、また、文学が扱わなければいけないのも個人的ないじめだと思います。だからこそ、文学は不可避的に社会的なもののカウンターとして働くと思うのです(文学的ないじめは社会的ないじめへのカウンターとして働く)。

>では、一人もしくは限定された少数の閉じた世界で培われた価値観や自分の位置づけを、社会の中でどう処理すべきなのでしょう。
しょせん趣味の世界だと、家族や仕事などの広い社会とは切り離して考えるのか。あるいは何らかの形でスライドさせるべきなのか。とても大きな問題だと思います。

ネットでの少数の価値観を社会の大きな価値観へスライドさせること、僕にはたぶんそれがうまくできません。そして今「文学が死んだ」と言われている原因が、それだと思います。局所的な趣味の世界にとどまって、社会や仕事や経済、あるいは政治にすら結びつかない。
文学が反社会的なものならば、少なくとも「反社会的なもの」として社会に結びつくべきだ、と僕は考えます。
ただ、少なくとも家族や友人などの範囲ならその狭い価値観をスライドさせることもできるかもしれません。ネットで何かを発言したのなら、同じことを、ネットではないところで言うべきだと僕は思います。そうすることで少しずつ何か変わってくるでしょう。
僕はこのブログで書いていることなど、現実的に恥ずかしくてなかなか言えません。それを言えるところが文章の、ネットの神秘であると思うともに、「それではだめだ」と強く思います。それが僕が抱えているいちばんの問題です。

>いまや、海外に行かなくても難解な思想書を読まなくても、「自分と周囲の人の評価の差」を否定することは簡単にできるようになりました。

これは何故でしょうか?
今の時代でも、それは僕にはとても難しいことだと思えます。

どうも何か話がかみあっていないような気がします。もしそうであればすみません、僕の理解力不足でしょう。
【2008/10/30 21:12】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
回答ありがとうございます。

個人的なものと社会的ものの対比は面白いですね。私はどちらかというとノンフィクションのほうを読むせいでしょうか、個人的なものから社会的な(一般的な)ものに通用するものを抽出する考え方ばかりをしていたような気がします。

>「反社会的なもの」として社会に結びつくべきだ
どうも私にはここが引っかかります。役に立たず反社会的なものである文学が社会に訴える、ならばその根拠というのは選民主義(文学および文学を読んでいる人は偉いんだ)になってしまうのではないのでしょうか?

>「自分と周囲の人の評価の差」を否定
私の書き方が悪かったですね。自分と周囲の人の評価の差ができたときに、「一般庶民ってのはわかってねーな」と言いやすくなったというのが私の言いたかったことです。
でも昔は昔で学生運動なども盛んだったわけですし、大卒というだけで希少価値も大きかったわけですし、「一般庶民ってのはわかってねーな」というのは昔からの物言いかもしれませんね。

何度も書き込みすみません。
私も文学が嫌いなわけではないので、私なりに色々読んでみようと思います。

では。
【2008/11/02 22:09】 | おめ娘。 #Ekn343s2 | [edit]
コメントありがとうございます。

どうも書いていて、僕は「社会」と言うといつも「全体主義的な社会」を想定していたように思いました。
今までの話をひっくりかえすようなことをいきなり言って恐縮ですけれど、ここのところは、もっと考えなければいけないところだと思います。

>>「反社会的なもの」として社会に結びつくべきだ
>どうも私にはここが引っかかります。役に立たず反社会的なものである文学が社会に訴える、ならばその根拠というのは選民主義(文学および文学を読んでいる人は偉いんだ)になってしまうのではないのでしょうか?

僕は口に出しませんが、「文学を読んでいる人間は偉いんだ」と心の奥底で思っている人間です。昔はもっともっと顕著でした。
でもそれはもちろん卑小な考えです。僕はたぶんそれを一生ひきずるでしょう。本当にすばらしい人はもっとナチュラルに文学を読むと思います。
さて、ご質問は、「『役に立たず反社会的』でありネットのような限定された集団のなかでしか通じない文学が、社会にコミットし社会を変革しより高いレベルの社会を導くという考えは選民主義的だ」ということでしょうか(自信なし)?
それが選民主義と言われれば選民主義かもしれませんが、少なくとも「少数であるがゆえに社会にコミットできない」というのはとても不幸な状況だと思います。
福田総理が突然辞任したときに、記者に質問されて「私はあなたとは違う。私は自分を客観的に見られるんです」と言いました。
これは政治的に言えば無責任であるけれど、(僕が持つ文学観からすれば)文学的に言えばとても良いことを言ったと見ることができます。
「福田総理の発言は素晴らしい!」と言えば、(おそらく)それは反社会的でしょう。でも文学的には(おそらく)正しい。
僕はそれが選民思想だとは正直思えないのですし、このようなかたちで社会にコミットすることが悪いことだとは思えないです(上に挙げた例の後者のような考えが社会にもっとあってもいいのではないか、ということです)。

>自分と周囲の人の評価の差ができたときに、「一般庶民ってのはわかってねーな」と言いやすくなった

これは否定というより、「ごまかし」みたいな感じがします。
僕ももちろんそうですが、「一般市民ってのはわかってねーな」という考えは絶対あとで痛い目を見ます(と思います)。

>いまや、海外に行かなくても難解な思想書を読まなくても、「自分と周囲の人の評価の差」を否定することは簡単にできるようになりました。

今の時代では逆に、難解な思想書を読むことが「一般市民はわかってねーな」につながるのではないかと思います。
だから、まっとうな意見を言えば、文学はもっと、ケータイ小説的なものまで(最低1回)堕ちたほうが良いと思います。
【2008/11/04 19:47】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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