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パッパ、キッス、パッパ

2008.11.01(21:14)

コヤニスカッツィコヤニスカッツィ
(2008/03/19)
不明

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罪と罰〈下巻〉 (1951年) (新潮文庫)罪と罰〈下巻〉 (1951年) (新潮文庫)
(1951)
ドストエフスキー

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「人間が都市を破壊し自然に回帰しようとしない理由はひどく単純である。それは都市が自然よりも美しいからだ」
 あたし、言ったよ、まるで馬の尻尾のように勇気をこめて。
 ゴッドフリー・レジオの「コヤニスカッツィ」を見たとき、それがドキュメンタリーかフィクションだか最初わかんなかったな、あたしは最初映画だと思った、でも賢い私はすぐにそれが「ドキュメンタリー」にカテゴライズされているのを思いだしちゃった、まるで朝鮮人参のような悲劇!
「優れたドキュメンタリーはフィクションであり、優れたフィクションはドキュメンタリーである」
 なんてゴダールを初めカイエ・デュ・シネマの面々は言っていたらしいけれど、それ当たってるわ、ドキュメンタリーを見れば人はフィクションを紡ぎ、フィクションを撮ればそれはすぐに現実を写しだしてしまう、いかなる理不尽があたし、たちのもとに降ってくるか、想像できるだろうか、狂っ狂う。あたしの考えでは、ドキュメンタリーは「ケース」なの、「場合の話」、難民を扱おうと現代中国を扱おうと、けっきょくはひとつのテーマだし、そのなかで人物に焦点を当てれば、それはケースなのよ。ある空間のなかでのある場合において。あたし、知ってる、それをはみだした瞬間にドキュメンタリーはフィクションになるのよ、まるで天国のようにはみだして。
「小説には何故必ず人間が出てくるのだろうか?」
 高橋源一郎がそう言うわ、人間が出てこないとあたしすぐに「これって映画じゃなくてドキュメンタリーなんだわ」って思っちゃう、だってそうしないと馬鹿だもん、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿脳味噌野郎、ドキュメンタリーは人間以外のものを主役として扱えるのよ、そしてそれはやはりケースなの、おもしろくもないドキュメンタリーに提示されるのは「主役としての人間」なのよ、「ケースとしての人間」なのだわ!
「ああ涙が出そうだ! 玉葱をあたしの手に! お話、してして!」
「どんな?」
「ドストエフスキー」
「『罪と罰』はまだ最後まで読んでいないんだ。僕は人を殺したいと思ったことはない。嫌いな人間がいた。でも、僕はその人に『いなくなれ』と思うことはあっても、『殺してやろう』と思うことはなかった。僕の頭のなかに響く『殺してやろう』という音はまるで教会の鐘のようにリアリティを持たなかった。僕には人を殺す人間の気持ちが一生わからないだろう。そしてそれは想像することすら難しい。だから僕らは代わりに思考するんだ。『罪と罰』には『思想としての殺人』と、『思想としての殺人の矛盾』が描かれているように感じた。ラスコーリニコフが言うように、彼が逡巡している時点で彼はナポレオンにはなれない。ナポレオンを強者と呼ぶのならラスコーリニコフは弱者だ。強者は殺人を考えない、だから強者でいられるのさ。強者が強者でいられるのは殺人を犯しながら殺人を抹消することができるからだ。だがラスコーリニコフにはそれはできない、そして僕にもそんなことはできないだろう。殺人を考えた時点で僕らは弱者でしかいられなくなるだろう。しかし僕らの生きる世界にそれでは本当の意味での強者はいるだろうか、残念ながらそんなやつらはいやしなかったんだ、ナポレオンなんて本当はいなかったんだ。いるのは鈍感な鉄の塊ぐらいだろう。だから僕らはこんなにも優しく、こんなにも悲しくあれるのさ」
 くるっくるー。




コメント
うふふ、調子に乗って書き忘れたね、おっちょこちょいのおちょめさんめ!
少し前に見たベルイマン「恥」もとてもおもしろかった。
これは音の映画だと思った。戦争の音にいちいち怯えてしまう。
「まるで他人の悪夢のなかにいるよう、その人が目覚めたら、いったいどうなってしまうの?」
大好き。
【2008/11/01 21:24】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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