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横浜トリエンナーレ 2008 TIME CREVASSE

2008.11.08(23:50)

 俺は眠気を抑えつつ、早い電車に乗り、横浜トリエンナーレに参加するために桜木町に向かった。会場は広く、いったいどこで開催されているのかちっともわからず、迷いに迷った。朝の十時から午後の五時半までいてもすべてを見ることができなかった。ふざけているのではないかと思った。
 以降は、横浜トリエンナーレに行った俺が、あまりの感動に発狂しそうになりつつ、感じたことを、ただ、つらつらと書き綴る。拙いことを覚悟しよう。それはひなげしだ。

◇チェルフィッチュ
「フリータイム」のDVDが流れていた。俺は「フリータイム」は六本木SUPER Deluxeで公演されたときに見にいったのだが、まったく、あれは劇場で見ないといけないものだと思った。「フリータイム」の音楽と役者の浮ついた台詞、照明と肉体運動のあたたかさ、あの場にいてそれを享受してこそ、確かに俺たちは何かを強く感じるのだ。俺が「フリータイム」のDVDを編集するのであったならば、カメラを一台だけ使いひとつの視点として構成しただろう。「フリータイム」に必要なのは人間の視点なのだ。アングルを変え複数のショットから構成すれば、必ず何かが強調される。「フリータイム」においては何事も強調されてはいけないのだ。たとえば役者がひきずる足枷であるが、「フリータイム」のDVDではそれがアップで写され、まるで観客にその余韻を楽しめ、その意味を考えろ、と言っているようで薄気味が悪い。「足枷が外れる」というのは「彼女たちがフリータイムを得た」というメタファには違いないだろうが、そのメタファをことさら強調すべきではないのだ。足枷はあの演劇においては塵屑のようなものでなくてはならない。それに情けをかけてはいけない。それが足枷のためである。
「フリータイム」の語りは驚異的であった。たとえばこういうものを見ると、では小説は「フリータイム」と比べて何を語れているのか、とつい考えてしまう。後述するミランダ・ジュライの作品もそうだが、チェルフィッチュもジュライも何かを語ろうとしている。しかし小説は彼ら彼女らに比べてもう何も語れてはいない、少なくとも、文字だけで書かれているのとは逆説的に、小説はもう俺たちに何も語りかけようとしない。小説は語りかけることに適した芸術形態だと思うようであったら、忠告だ、おそらくそれは間違っているだろう。

◇ミランダ・ジュライ
「君とボクの虹色の世界」(邦題は失敗だ)でミランダ・ジュライにめろめーろにされてから、俺はミランダ・ジュライと結婚するつもりでいたが、もちろんそんなものは妄想だった。失恋である。ミランダ・ジュライの作品は、何十枚かのプレートに書かれたテキストを狭い廊下をくぐりぬけながら読んでいくという作品だった。俺はここを通り抜けるときに心底ぞっとしたものだ。そこは奥深い森の深くであった。悲しみの泉がこんこんと湧きいで、しかし俺のもっとも愛する母親はもうやってはこない。こんな文字が書いてあった。
「インターネットにかける時間を減らす」
「三十分運動する」
 この文字を見たとき、ミランダ・ジュライははっきりと俺の前に降臨したのだった。高橋源一郎は「人々は自分に向けられていると錯覚できる言葉を求めている」と言った。ミランダ・ジュライのこのふたつの語りかけは、奇しくも、俺が最近決意したふたつのこととまったく同じであった(だからmixiの日記もあまり更新しないようにがんばっちゃう)。ミランダ・ジュライの言葉はあまりに普遍的だが俺の心には一輪の花が咲いた。紫色の花が甘い夢を見ている。

◇リクリット・ディラヴァニャ
 ああ、俺は、俺は、空を、空を越えて、天、天国まで、天国まで! のぼっていってしまいそうだ!

◇ジョーン・ジョナス
 たいがいの人間にとって小説というものは表現ではなく手段である。小説を手段である前に表現であるととらえて書ける作家が今何人いるだろう、現代アートのそれは手段である前に表現である、そしてそれを真に表現とするならば、つまらない小説なんて書くのをやめっちまえ。

◇ロドニー・グラハム
 今回の展示で純粋にいちばんおもしろいのはこの親爺の作品であろう、つまらなそうに銅鑼に向かってじゃがいもを投げているだけの映像作品である。しかもちっとも命中しない。爆笑である。「ポテトが山積みでスタジオに入れない」は、ドアの前にじゃがいもが山積みになっているだけの写真作品だ。爆笑である。写真撮っている暇があったらさっさとじゃがいもをどかせばいいのだ。おもしろすぎるぜ。

◇idance 80's Vol.4:酒井幸菜
 今宵だけの限定イベントである。酒井幸菜が、佐藤公哉(ボーカル、ヴァイオリン)、古川麦(ギター、ボーカル)の音楽に合わせて踊る。不幸にも俺は二十三年も生きてきて一度も踊りということに興味を持ったことはなかったが、酒井幸菜の踊りを見て価値観が一変させられた。土の上のわずかな場所で踊る彼女に一瞬にして惚れる。また失恋である。彼女は月のようであった。横浜の淡い光とわずかなスポットライトだけで、そこには大きな力が出現していた。酒井幸菜はいったい何のまわりを公転するだろうか、俺には知れぬが、俺ができることはせめて哀れな蟇蛙のように彼女のまわりを公転することだけであろう。俺は酒井幸菜の踊りを見ることができただけで、横浜トリエンナーレに行った甲斐があったと思った。リングドームという場所で行われた。俺はほかの作品を見てまわるのに忙しく開始直前に行ったため、ドームのなかで見ることはできなかった。できうるならば、あのとき、俺は酒井幸菜を間近で見たかった。リングドームの煤けた穴に食いいるように顔をつっこむのではなく。
 酒井幸菜は俺と同い歳である。骨のような肉、幽霊のような顔、小さな女が月のふりをしている、ああ、俺と同い歳であれほど何かを表現できるのならば、それはおそらく血の滲むような努力をしてきたということだろう。のほほんとポテトチップスを食いちぎりながらセフィロスを何度も追いかけていた俺とは人間の出来が違う、俺はまったく不出来であるからにして、血の滲まないような努力しかしないのだ。彼女には花を添えるべきだった。講演終了後、俺の二メートルほど先に立っていた彼女に俺は何かを言うべきであった、彼女は、彼女が、彼女に、彼女を、ああ、俺は吠えつくことや引き裂くことしか知らない、とんだ犬畜生だ、仔犬のように舌を出せ!

   ◇◇◇

 小説を書くには狂気が必要である。それはひとつの才能である。ラスコーリニコフがナポレオンでないのと同じく、才能が云々と抜かしている人間にはすでに才能がないことは明白である。才能のないことを前提として俺は生きていくしかない、作家になるという確信を抱けぬのならば、それはもはやしかたない。狂っているふりをするだけだ。俺はこれからどんどん他人にひかれることを書き、俺はどんどん狂ったふりをするだろう、未来の俺はそれを恥じなくなるだろう、やがて「ふり」は上っ面だけならば「本当」になる。これは私が知る真理である。

  ◇◇◇

 太宰治「走れメロス」(新潮社文庫)を電車のなかで読んだ。「故郷」を読みながら不意に泣きそうになり、慌てて車窓から外を見やる。俺の代わりに天が泣いていた。ぽつりぽつりと車窓が濡れていった。それは俺の通る道である。
 




コメント
はじめまして。
ブログ拝見しましたが、
継続してここまでの文章が書ける
なんてすごいことだと思います!
あまりに感動したので、コメントさせていただきました。
ブログ、これからも続けてくださいね。応援していますから!
【2008/11/09 18:43】 | トラキチ #m6msOpPU | [edit]
はじめまして。
どうもコメントありがとうございます、とてもうれしいです。
僕は最近はがんばって「何かあったときにのみ」日記を書いているのですけれど、もしそうやって書かれた僕の文章が少しでもまとなものであったなら、それはきっと書かれた対象(トリエンナーレなど)が本当にすばらしかったのでしょう!
【2008/11/09 23:21】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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