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牛角でお肉をいただく。

2008.11.28(22:46)

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 昨日、先輩方々が退院なさったので、そのお祝いということで牛角までお食事に行く。あたしが牛角(というか焼肉屋)のメニューのなかでいちばん美味しいと思うのは「ごはん(中)」で、どうして焼肉と一緒にいただくごはんというのがあんなに美味になるのか、それはクレオパトラの髪型くらい謎であるところで、あたし、びっくりしちゃった。途中、ごはんがなくなってしまって、でもあたし、どうしてもごはんと一緒にお肉をいただきたいので、ご注文してからごはんが来るまで待って、でもそのあいだにお肉がどんどん焼けていき、おろおろ、とりあえず自分のお皿に確保して(あたしいじきたない)、冷めた頃にようやくごはんがやってきて一緒にぱくり、そのとき、あたしなんだか大切な何かを間違った気がした。お友達はお隣で「塩キャベツ美味い」とおっしゃって塩キャベツばかり食べてらした。あたし「しゃぶしゃぶ温野菜」なんていう名前のお店に行ってもとりあえずお野菜はいただかず、えんえんお肉ばかりいただく人非人なのだけれど、焼肉屋さんやしゃぶしゃぶ屋さんに伺わせていただくと、世の中にはいろいろな食べかたがあるんだなあ、と知れて、世間のことに疎いあたしは楽しい(この書きかただと、「まるで牛角のお肉は美味しくはない」と言っているように思われるかもしれないけれど、そんなことはなく、ただお肉の下にいらっしゃるごはんが美味しく、また、お肉の前後にいただく塩キャベツもまた美味しいだけで、お肉も美味)。

   ◇◇◇

 最近、あたしはずいぶん文学のことをがんばって書いていて、このあいだも、また文学について書こうと思い、「たまには普通の文章で書こう」と「僕はガルシンの『紅い花』を読み、そしてこの作品について、うんぬん」などと書きはじめてみたけれど、はて、書いていていっこうに楽しくない。嫌んなる。「俺」や「あたし」などの一人称を使い、ランボーや太宰治を真似て書いたほうが、よっぽどすらすら、楽しい。病気である。でもあたし、日記は楽しく、すらすら書くべきだと思う。そうでなければ、つまんない。あたしは最近、「あたしたちはすらすら書ける日常を愛するべきだ」と、思うのだ。
 なお、ガルシン「紅い花」の表題作は、あたしの考えでは、エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」の表題作と同じ作品で、おもしろく、また、よく考えてみれば、このおふたりの名前は響きがよく似てらっしゃる。あたし、SFというものが苦手で読めないのだけれど、ついつい、「世界の中心で愛を叫んだけもの」の表題作を読みかえしたくなっちゃう。
 「僕」は、あと、「ライトノベルのキャラクタは肉を拒否する、ボケが起きたときに必ずツッコミを入れるのが『キャラクタ』というものの定義である」とか「現代ではどんなにボケてもツッコミを誰もいれてくれない。だから僕らはたとえば貞奴のようにひとりボケツッコミを延々に演じるしかないのである」とか「現代文学は近代文学よりも一般に難解であるとされるが、少なくとも僕にとって、現代文学は近代文学よりも語りやすい。この矛盾はいったい何なのだろうか。もしあるものごとがその難解さゆえに語りやすいならば、その難解さは難解なのではなく、実はずっと単純なのではないのだろうか」とか、いろいろおっしゃっていたけど、あたしの頭のなかはいつも白いので、小難しいことはよくわからず、少しだけ歯痒い。




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