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東京ELECTROCK STAIRS 「Wピースに雪が降る」

2008.12.29(02:03)

 12月27日の夜、吉祥寺シアターで東京ELECTROCK STAIRSの旗揚げ公演「Wピースに雪が降る」を見た。ダンスについてはまったく無知なので、これはただたんに酒井幸菜が出ているからという理由だけで見にいったもの。
 酒井幸菜以後、勅使川原三郎の「ない男」を見たけれど、これはもうダンスというか演劇というか小説(というか言語)に近い表現だったと思うので、純粋にダンスらしいダンスを見たのは、横浜トリエンナーレで酒井幸菜の踊りを見て以来のように感じてしまう。
 客層の違いにまず驚いた。ダンスを見にくる人というのは、ミニシアターに通う人や演劇に通う人とはどうも違うように思えた。笑い話だけれど、ほんと、来ている人が全員ダンサーか評論家に見える。早稲田松竹や新文芸坐なんかに行くと、「ここに来ている人たちはいったい何なんだろう」とよく思ってしまう。「あたしはなんでこんなところに来ているんだろう」。
 あたしの考えでは、ダンスというのは映画よりなお閉鎖的でありながら、どこか精神が解放されている。なんだろう、小説が映画や演劇とときどき酷似するように、ダンスはむしろ詩や音楽と酷似しているように感じてしまった。
 
   ◇◇◇

「Wピースに雪が降る」とあたしとのあいだにある究極的に不幸なことは、「笑いのポイント」がずれていること。「笑いのポイント」は作品を鑑賞するときにかなり重要な要素をしめていると思うけれど、同時に、ここは各個人の趣味がだいぶ関わってくるところだ。考えてみればヒップ・ホップをベースにダンスをつくっているらしい人の作品とヒップ・ホップを聴いたことがないあたしの趣味が合うわけがなく、でも、それはたぶん作り手のせいでもなく、誤解を怖れずに言えばあたしのせいでもない。
 べつにあたしはお笑い芸人のライヴを見にいっているわけではないし、たとえば同じ日に見た小津の映画でも笑える要素があって、なんだろう、純粋に「お笑い」としての作品を鑑賞するんじゃなくても、映画でも、ダンスでも、小説でも、笑える部分というのはきっとあって、カフカにも川端康成にもちゃんとあって、そこで「笑わせる」というのは、たぶん映画や小説が「笑っていいんだよ」という安心感を持たせるということがまず前提にあると思う。優しい作品は「笑うこと」をこちら側に許してくれる。そして、そういう笑いは作者側が積極的に作品のなかに折りこむのではなく、ふとした瞬間に作品のなかにまぎれこんでしまうものであったり、実は、つくった当人ですらそのポイントが笑うところかどうかよくわからないところであったりもする気がする。そして、そういう、力の抜けた笑い、何からも強制されるところがない笑いというものが、今作品をつくる人間には求められると思う(もちろん、全員そうしろというわけじゃない)。
 強制される笑いは強制される感動と同じく悲劇的なものだって、ほんとはみんな、知ってるくせに。

   ◇◇◇

 書いていて、「あたしはダンスの良き鑑賞者じゃないな」と思うけど(調子乗りすぎ)、あたしは「あるものごとに無知な人間がそのものごとについて語るべきではない」とはぜんぜんちっともまったく思わないので、もう少し続ける。一緒に見た友達は「身体を動かしたくなった」と言っていて、おそらくそれは(素人が)ダンスを見たときに感じるもっともすばらしい感想のひとつだと思う。
 映画館に通うと、自宅のちいちゃなテレビで映画を見る気にはちっともなれなくなって、だから今あたしの自宅には見なくてはいけない映画が7本も堆積していて、でもそれはまあどうでもよくて、まず、ダンスや演劇は絶対生で見なくちゃいけないと、ダンスや演劇を見るたびに思う。あたしはチェルフィッチュの「フリータイム」を舞台で見たあと一部をDVDで見たけれど、やっぱり、そこに表現されているものはぜんぜん違うような気がした。音楽の場合だと、CDで聴く音とライヴで聴く音、それぞれの良さがあって、ライヴに行かなきゃいけないとは思わないけれど(行くほうがいいけど)、舞台ではぜんぜん違う。
 あたしは横浜で酒井幸菜と佐藤公哉と古川麦のパフォーマンスを見てほんとにほんとに感動してしまった。そのリハーサル風景がこれ(上が前半、下が後半)。






 たぶん、これをyoutubeなんかで見ても何がなにやらさっぱりわからないと思うし、たぶんあんまりおもしろくないと思う(玄人が見たらまたべつなのかもしれないけど、あたしは素人)。舞台もダンスも映像で見れば「そこで何が行われているか」はわかるけれど、あたしの考えでは、ダンスでも演劇でも、「何が行われているか」というのはそんなに重要なことじゃなく、もっともっと重要なことは、何かが行われている以上のところにあって、しかもかっこうつけていえば、それは言語では表せない、名づけえぬものだと思う。
 このyoutubeの酒井幸菜のダンスも1、2メートルくらいのところで見れば推定1023倍くらいはすばらしく感じられるはず。
 小谷美紗子のライヴを見にいったとき、あたしはずっと彼女の表情を見ていたのだけれど、「なんて顔で歌っているんだ」とものすごく衝撃を受けた。たぶんそれはあたしが聴いた別種の音楽だったんだろう。
「Wピースに雪が降る」のダンサーたちが踊っているのを見たとき「なんて顔で踊っているんだ」とやっぱり思った。演劇では役者の一生懸命さっていうのはときに隠れたものになるように思うけれど、ダンスというのは逆で、そういうのが前面にぐいぐい出ていた。ちなみに、あたしはだいたいの場合そういうのがぐいぐい出るパフォーマンスはまず見ないので、その面はなかなか刺激的だった。
 たぶん、その表現のしかたというのは、横浜で何かに憑依されたかのように踊っていた酒井幸菜とは違う表現のしかただと思う。言いかたを変えれば、たぶん「身体が先か(「Wピース」)、音楽が先か(横浜での酒井幸菜、その他)」という違いになるような予感がするのだけれど、なにぶんあたしは素人だし、もういいかげん疲れてきたし、何言ってるかわかんないので、そろそろさよならの時間。

   ◇◇◇
 
 酒井幸菜たちのパフォーマンスを見るまで、あたしはダンスというものに毛ほどの興味も持っていなかったから、冗談ではなく、酒井幸菜の踊りを見たときにあたしのなかで初めてダンスというものが生まれた。それは貴いけれど、たぶん、ひとつのダンス作品を見るということは同時にひとつのダンス作品を失うということなんだろう。それは少しだけ寂しい面もあるけれど、たとえば、サリンジャーの小説をあたしは読み返すごとに再獲得しているという自信だけはあって、あたしがこれから見ていくダンスも、そういう性質を持つものであればいいと願う。もう少し付きあってみようと思う。うふふ、わけわかんないものは、たぶん得意分野だから。




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