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新年の抱負

2009.01.06(07:30)

 中島義道「働くことがイヤな人のための本」を読んでいたら(就職活動中にこんな本読んじゃだめだよ!)、ずばりあたしのことが書いてあって、なんだかおかしくなっちゃって、ずいぶん、いろいろなことを考えたような気がした。
 いわゆる自己啓発本というものの奇妙なところは、まるでそれが2時間で読みおわるようになっていて、2時間で何かがわかるようにものごとが書かれている点にあるような気がしちゃう。「これこれはこういうことなんだよ」と2時間くらい言われて「はい、わかりました」と答えられる人なんてほんとはいないはずなのに、なんだか、あたかもそれができるように世界が構成されているように感じられてしまった。「これこれはこういうことなんだよ」と言われて「はい」と答えられない人は、じゃあ、いったいどうやったら救われるんだろう。
 読書に即効性はない。一冊の本が人生を変えるなんて幻想だ。50ページまで読んだ感想として、中島義道の言っていることにはあたしはほぼ同意するけれど、ほんとは、彼の言っているプロセス(心の動き、思考の転換)は2時間じゃなく、2年間かけてやらなくてはいけない。
 大学に通っていた頃、(誇張した言い方をすれば!)あたしは友達を作れずほとんど家と大学を往復するだけで空いた時間は読書と執筆に費やしていた。そのやりかたがよくないということはわかっているつもりだったけれど、あたしにとってそういった生活を思いきってやめようと思うほど苦痛ではなかった。あたしは読書に救われていた。
 そういうやりかたがほんとの意味であたしにとって耐えがたいまでになったのはそれから数年後で、たぶん、あたしはそういうやりかたを一度経験したから、そういうやりかたがいったいどういうものだったか多少なりともわかっていて、今は、絶対にそういうやりかたはしたくないと思っている(なかなか、うまくはいかないけれども)。
 自己啓発系の本が言っていることは、おそらくどれも正しい。けれど、たぶんあたしにとって「正しい」ということはそれほど重要じゃなく、そこに書かれていることが正しくあろうと、間違っていようと、あたしが数年単位で付きあっていこうと思える何かがあれば、いい。
 テニスの練習ですぶりをしても、たぶん3時間後に役に立つことはほとんどないだろう。でも、毎日すぶりをやっていれば、1年後にはずいぶん上達している。読書も、いくらかそれに近いところがあって、今読んでいる本もべつに今すぐ役に立つわけじゃない。楽しいということはあるけれど、もし楽しい以外に何か求めるのだったら、今読んでいる本が役にたつのは半年後とか1年後とかになってしまう。
 でもそれは、ただたんにあたしの頭がすごく悪いからかもしれない。あたしがただどんくさいだけなのかもしれない。気がつくのはいつも2年後3年後で、その2年3年のギャップは自分や他人を傷つけるのにじゅうぶんな時間だ。傷つけてしまったのは2年も前、「忘れられてしまった言葉だけが美しい」。もしあたしがほんとに言葉を美しく、純粋に使おうとしたら、あたしはもう言葉を使えない。あたしは言葉をあたしの色に染めてしまう。
 あたしはそのギャップによってついた傷を何で埋めるんだろう。何によって救おうとするんだろう。文学や芸術はあたしにとって間違いなく救いだった。あたしはこんなに醜くなってしまったけれど、芸術や文学には感謝してもしきれない。けれど、「救い」は同時に「縛り」でもある。あたしは文学によって救われると同時に文学によって縛られてしまった。救いは徐々に訪れる。ややこしいけれど、そこにもやっぱりギャップは存在する。あたしは文学によってこんなに救われ、そして縛られたことに気づくのに、また、2年も3年もかかっている。
 あたしが今やりたいことは、ほんとを言えば、いったんあたしを救ってくれた文学、不安定なあたしをぐしりぐしり縛りつけておいてくれた文学のひもをゆっくりとほどいていくことだ。あたしは実は言葉優先で話している。今あたしの言った「あたしのやりたいこと」は具体的にいったいどういうことなのか、あたしには、ぼんやりとしかわかっていない。でもあたしはその向こう側に何かきらきらしたものがあるとちゃんと思えているから、その場所に安心して惹かれていける。
 後悔とはギャップのことだ。時間差は後悔というわかりやすい思考としてあたしたちを苦しめる。あたしはなんにも考えずに理系の大学に進み、就職したくないばっかりに理系の大学院にまで進んでしまった。あたしはそれをとても後悔している。でも、あたしが文系の大学に進んでいたらどうだろう。後悔せずに生きていられるだろうか。不思議と、あたしにはそうは思えない。けっきょくあたしは何をしたとしても、何を選択したとしても、すべてを後悔してしまうのだと思う。それは何が間違っているとか、何が正しいとか、そういう問題じゃなくて、あたしの性質なんだと思う。でも、それは裏を返せば、何を選択しても後悔しない生きかたも可能だということだ。もちろん、それは理想論であって、理想というのがいつも醜さや欺瞞を抱えているとおり、後悔のない生きかたなんてしたくないしできるわけもないのだけれど、ひとつの理想として、それを信じ、それを目指すことは少しだけ貴いし、愛しい。
 将来のこともある。あたしは作家になりたい。あたしには名誉欲しかないから、何かを書いて、それによってたくさんの人に褒められるのだったら、あたしはとてもうれしい。でも、作家という仕事は、おそらくはあらゆる作家志望者が考えているようなものではなく、何かもっと違った、醜い、おかしな、てんでやっていられないような仕事なのかもしれない。だからもしあたしが作家になったとしたら、あたしはそのことを後悔するかもしれない。でも、何にたいしても後悔するとわかっているのなら、人はなんだってすることができる。
「一年間に作家デビューする人の数はおおよそ5000人。これは一年間にデビューするアイドルの数とほぼ等しい」
 高橋源一郎という人はそう言った。作家になり、作家として生きのこっていくには、アイドルになるくらいには難しい。あたしは一応小説を書いているから、小説家たちが書いているものがどれだけすごいものか、少しくらいはわかっていると思う。彼ら彼女らが書いているものは、よく言われているよりはずっとすごく、また、彼ら彼女らの人間性も、あたしに比べればずっとすごい。プロじゃなくたって、あたしは「なんであなたはプロ作家じゃないのですか!?」と思わず問いつめたくなるくらいすごいことを書いている人を知っているし、同時に「こういう人こそ作家になるべきだ」と思う人も知っている。あたしには才能がないことはよくわかったし(才能がある人はこういうことは絶対に書かないんだよ! だから才能があるふりをしたい人はこういうことを書いちゃだめ)、そのことはもうしかたないと思う。才能がなくても、作家の端っこにはかじりつけると信じるしかない。
 作家になるには生易しいことではないともよく聞いているし、実際、彼らが書いているものを見てもそう思う。あたしは1年と少ししたら大学院を卒業してしまう。あたしは就職する気まんまんだけれど、もしかしたらあたしは就職なんかせずにアルバイトをしながらせっせと執筆をするべきなのかもしれない。でもあたしはそうしない。あたしはたとえばフリーターという不安定な立場にいることにたいしてとてつもない恐怖を感じてしまうだろうし、ひきこもりにもなれない。あたしはひきこもって本を読んで何かをひたすら書いていると身体がどんどん腐っていく感じに襲われる。だから大学の授業でも、アルバイトでもなんでもいいから、読書や執筆以外の何かがあたしには必要だ。それが仕事であっても、しかたがないと思う。
 あたしは仕事にたいしても、作家になるという気持ちにたいしても、中途半端だ。きっと本気で作家になりたい人はあたしを軽蔑するだろう。あたしですらあたしを軽蔑する。
 他人から「そんなにやりたいことがあって羨ましい」と言われたことがある。でも、あたしはもし芸術や文学以外に何かほんとに救い(それは大それた意味ではなく、誰もが人生に必要とする細々としたものという意味の救い)になるものを見つけることができたら、文学なんてさっさと捨ててしまうことができるだろうと思っている。あたしは今のところ文学や芸術に感謝しているけれど、ほんとにそれを愛しているという感じはしない。あたしは文学も芸術も愛していない。好きでこんなふうになってしまったわけじゃない。逃げつづけていたらこんなふうになってしまっただけだ。あたしはすでにエスポワールの船に乗っている。あたしは疑いなく「逃亡者」で「敗北者」なんだ。醜さを抱えこんでいる。あたしはあたしより若い人がすごいものを書いていたり、せっせと芸術にいそしんでいるのを見ると、たまらなく嫉妬してしまう。彼ら彼女らはあたしの目にはどうしても美しく見える。あたしはほんとは彼ら彼女らが大好きで彼ら彼女らと同じようなことがしたいと思うのだけれど、同時に、彼ら彼女らを殺したくもある。
 あたしは芸術家でありたいと思う。けれど、あたしはあたしが尊敬する人たちのように芸術に伴う痛みや不安定を受けとめる覚悟がない。だからあたしは芸術家ではないし、作家になりたいと思う反動としての作家になれないだろうという予感はますます強くなる。それはわかりきっているけれど、黒い欲求だけがどんどん、社会の到来とともに強くなる。たまらない。
 あたしの求めているものは芸術ではない。たぶん、あたしには何か芸術のほかに求めているものがあって、それが手に入らないから、芸術のほうに逃げているだけだろう。仮にあたしが作家になったとしても、それは変わらない。あたしは芸術を手に入れたふりをして芸術じゃないもので満足するだろう。あたしにとっての芸術は逃亡地でしかない。だから芸術がなければ生きていけない、あるいは、表現しなければ死んでしまうように見える人に、あたしは激しく嫉妬する。いったいなんなんだろうとあたしは思う。あたしはいったい何をしているんだろう。
 おそらくあたしはどんどん小さくなっていくと思う。醜さは消えず、何も手に入らず、星のように降る救いを待っている。でも、あたしはそれがあたしなんだと思う。
 あたしはあたしをどう思っているんだろう。あたしはあたしを許したわけでも、認めたわけでも、開きなおったわけでもない。あたしはあたしの醜さをはっきりと嫌悪するし、あたしは一生あたしを好きになれないだろう。でも、あたしはあたしにたいしてはっきり何かを感じはじめている。それはきっと「祈り」や「希望」という名詞を形容詞としてあたしにくっつけたときに生じる、何かあたたかなもののように思う。いつもそうであるように、あたしがあたしに感じている感情を言葉で表すことができない。でも今あたしはあたしに悪い感触は抱いていない。その根拠をあたしは何か示そうかと思ったけれど、どうやら無理みたいだ。あたしはどうあろうと醜いし、あたしはあたしをどうあっても好きじゃない。その醜さを愛そうというわけではない。
 不思議な感じがする。あたしは今生まれて初めて前向きなことを書いていると思う。わかってもらえないかもしれないけれど、あたしが今書いたのは悲しいことがらじゃない。あたしは常時落ちこんでいるような鬱々とした人間だけれど、気持ちが沈んで何かが嫌になってこの文章を書いたわけじゃない。あたしは今少しだけ顔を上げることができている。ジレンマだとあたしは思う。でもジレンマが好き。世界が好き。
 長くなったけれど、あたしはこの文章を新年の抱負(!)として捧げたい。




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