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トーキング・アバウト・ラッキーガール

2009.01.17(23:16)

 橋本治「宗教なんてこわくない!」をもりもり読んでいたら、「ここにもわたしのことが書いてある(!)」とまたまたびっくりしちゃったんだけれど、あんがい、「その本に何が書いてあるのか」というのは本の内容よりもむしろ心のありよう(韻を踏んでいるのだよ!)に関係していて、つまり、本にはそれはそれはいろんなことが書いてあるには違いなくて、わたしがそのなかでもっとも敏感になれる部分につい反応しちゃうから、結果的に「どの本を読んでもおんなしようなことが書いてある」と思ってしまうだけなのかもしれない。
 志村貴子を読んだとき「わたしは今、遅れてきた思春期をやりなおしているのかもしれない」とずいぶん気持ちわるい(!)ことを考えてしまい、そして、最近もやっぱり同じようなことを考えていて、つまり、わたしはわたしの精神年齢は14歳くらいなのだろうと思う(わたしが14歳だったとき12歳くらいだろうか)。精神年齢というものはほとんど幻想だしそんなものを気にする必要はないはずだけど、事実、わたしはわたしのことをまだ子供だと思っているふしがあって、それはだらしないしよくないことなのだと思うけれど、社会というよくわからないくせに「我々は存在するのさ! ふはははは!」と馬鹿みたいに主張してくる存在を前にしているとしりごみしてしまう。「大人と子供」という対立は社会に根ざしているような気がする。社会が存在しない場所で子供は「早く大人になりたい」と言うんだろうか。わたしにはいつもよくわからない。
「わたしは他者を書けない」とある人に言ったことがある。わたしがこんな女の子(「女」ではなく「女の子」ね!)のようなふりをして何か書いているのには、自覚的にも無自覚的にもさまざまな理由があるけれど、その自覚と無自覚とのあいだの揺らいでいる部分に存在する理由として「(個人的な)他者を書けない」ということがある。わたしがもし大衆ではなく個人としての他人(友達とかのことだよ!)の目をほんとに気にしていれば、わたしはこんな文章はきっと書けないに違いないし、文体が安定していないのも自分に確固としたものがないからかもしれないと思っていて、というのも、つまり個人としての他者を気にすればそれによってわたしという存在も確固になる(あたかも小説が読まれることによって小説になるように!)ものかもしれないから、わたしはわたしを失ったままなのだろう。
 たとえば綿矢りさでも柴崎友香でも誰でもいいけれど、彼女らは人間の日常の場面をよく書いていて、でも、わたしには普通の人が何かをしたり何かを思ったりする場面が残念なことにひとつも思いうかばないから(やばいよね!?)、そういうことが書けない。それはわたしが彼女たちのような日常を過ごしていないからというだけでなく、わたしが彼女たちのように他者と関係を結べていないからだろうと思う。ふむむ。

   ◇◇◇

 わたしの日記はここで終わる。

   ◇◇◇

 昨日はふらふらと東京に出かけた。見たい映画が特になかったので(ほんとはテンギズ・アブラゼ「懺悔」とか神代辰巳「黒薔薇昇天」とかを見たかったんだけれど、時間も場所もあわず残念。どうでもいいけれどアブラゼってすごい名前だ、アブラゼミと油揚げを同時に連想させる神秘的な上にださい名前だ)、せっかくだからと、東京都写真美術館に行って中山岩太の写真を見てきた。もちろん誰だか知らないけれど、この人の写真はすごくよかった! 最近家にこもって「カイジ」を読んだり企画書をくりくり作っていたのでなんだかあんまりうきうきできなかったけれど、ほんとにこういう写真を見ていると「あるものがそこにある」というあたりまえのことがひとつの奇跡みたいに思えて、悲しいような、うれしいような、厳かな気持ちになってしまう。わたしはどうやらモンタージュ(?)などのへんな凝った作品はどうやらあまり好きじゃなくて、もっぱらポートレイトなどの普通の写真に見惚れていた。あのぼんやりした空気、確かにこの世のもののはずなのに写真のなかにおさまってしまった瞬間すごく遠いところに行ってしまったような感覚、その逆としての自分が取りのこされてしまったような郷愁にも似た感覚、が心地よくて、ひさしぶりに元気になった。
 そのあと六本木の森美術館に行き、「チャロー! インディア展」を見た。インドに興味のかけらもないけれど現代アートにはそれなりに興味があるので行ってみたのだ。率直な感想を言えば前半はつまらなくて後半はおもしろいと思った。そもそもの話、最初のほうで流れている「いかにもインドっぽい音楽」にげんなりして(あれって作品の一部なの? それとも美術館側が勝手に流しているだけなの? 美術館側が勝手に流しているだけとわたしは思ったのでどうであれそういう方向で話を進めようと思う、間違ってたらごめん)、というのも、「インドっぽい」というのは「インド」とは違うものだし、無理にインドっぽさを演出すると少なくともわたしからはインドは遠く離れていってしまうような気がした。たとえばこの前の「アネット・メサジェ展」では(たぶん)フランスの音楽なんて流していなかったはずだし、それは流さなくてもわたしたちがフランスを享受できるからだと美術館側が思っているからだと思うけれど(そんなもの幻想だけどね!)、とにかく、今回インドの現代アートを展示した思惑には「インドの文化に親しもう!」とか「インドにもこんなすごいアート作品があるんだぞ!」ということを少しでも示したかったからというのがあるのだろうし、だとしたら、うまく言えないけれど、あの「いかにもインドっぽい音楽」は逆効果にしかならないと思う。たとえれば「これが現代の日本です!」と言って忍者の服を見せるようなものかもしれない。
 作品としては「スクリーンの前に立つと影にへんな生物がとりついてくる作品」と「通路を通ると中心の円盤がきらきら回転して壁にグロテスクな人形の影ができる作品」と「『俺は天才だぜ。おまえらは凡人だぜ』的なことを延々言っている映像作品」がとりわけよかった。あと「扉」という作品があって、どういう作品かというと壁に普通の扉を設置しただけの作品で、あまりにくだらなすぎて笑ってしまった。「そのままじゃん!」とつっこんだ(音声ガイドを借りなかったので何かしかけがあったのかもしれないけれど、わたしはいつも借りないのでいつも知らない)。

   ◇◇◇

 これを書いているうちにとんでもないニュースが飛びこんできた。いつ消えるかわからないので、全文を引用しておく。


一青窈、ドロボーに異例の呼びかけ「お金を世の中のために使って」

1月17日17時55分配信 J-CASTニュース

「どうか、私のお金を世の中のために使って下さい」。歌手の一青窈(ひとと・よう)さんが、自分の財布から金銭を盗んだ犯人に向かって呼びかけている。自身の公式サイトを通じて「どうか、あなたよりもっと必要な人にそのお金を使ってください。心からお願いします」とメッセージを投げかけている。

■「あなたの飲み代や衣服に消えてゆくのでは我慢がなりません」

 一青さんの公式サイトの「DIARY」というコーナーに2009年1月15日、「心当たりのある方へ」というメッセージが掲載された。そこには、黒っぽい財布の写真とともに、「昨日、私の財布から●万円を抜き取った人へ」という書き出しで始まる一文が記されている。

 それによると、一青さんは1月14日の夜、タクシーに財布を置き忘れた。2時間後に運転手が届けてくれたが、「財布は空っぽでした」。具体的な金額は書かれていないが、被害額は「●万円」だという。「麻布十番か広尾辺り」で自分の後に乗車した客が、現金だけを抜き取って財布をタクシーに残していったのだろうと、一青さんは推理している。

「あなたが抜き取ったそのお金は 私は容易に働いて稼いだものではありません」
「本当に心をこめて、汗水鼻水涙たらして たくさんのスタッフ、人間が関わって 命のこもった音をつくり それがやがてお金に変わり 私なりに一生懸命頑張って稼いだお金です」

と貴重な金銭が盗まれたことへの悔しさを記したあとで、一青さんは「お金を抜き取った心当たりのある人」に向かってこう呼びかけた。

「どうか、私のお金を世の中のために使って下さい。あなたの飲み代や衣服に消えてゆくのでは 我慢がなりません。(中略)どうか、あなたよりもっと必要な人に そのお金を使ってください。飢えで苦しむ子供たちでもいい 病に苦しむ人に コンビニでもいい、募金箱でも、一歩立ち止まって そのお金の使い方を考えてください。心からお願いします」



 一青窈が言っていることは何も間違っていないと思う。「小林武史との不倫がほにゃらら」とか「まず自分が寄付したら?」とか言うほうが間違っているとわたしは思う。
 まず一青窈が寄付していないわけがなく、わたしは一銭も寄付していないけれど一青窈は寄付しているから、一青窈はわたしとは比べものにならないくらいに偉いし努力をしているはずだ。テレビというのはそこに映っている人たちがたとえ何をしても「けっ!」と言うことが許されるメディアだから、ほんとのところ、わたしたちは「けっ!」ということにいろいろ注意しなくてはいけないと思うのだけれど、それは今は置いておきたい。
 一青窈がこういうことを書けば当然「偽善だ」と言われる。正直に言えばわたしも「偽善じゃないだろうか」と思った。そして「もし盗んだ人が食べ物もろくに食べられないほど切羽詰った人だったらどうするんだろう?」と思った(「HUNTER×HUNTER」の読みすぎかもしれない)。でもたぶんこれは偽善じゃないのだと思う。
 一青窈の言っていること、それにたいしてわたしたちが抱く感情にはもう絶対に奇妙なところがあって、わたしはときどき「その奇妙さ」について考えてみるべきじゃないかと思う。へんな言いかたになってしまうけれど、一青窈のこの訴えは彼女の歌よりもずっと芸術だし、詩なのだと思う。
 たぶん、行為が問題なんじゃない。いつもやりかたや言いかたが問題であって、行為の善悪はほんとは関係ないのかもしれない。もしかしたら戦争もそうだったんじゃないだろうか。行為自体が間違っていたとしても、やりかたや言いかたによって批難されたり褒められたりする。奇妙なものだと思う。わたしは書くという行為にたいしてときどき「醜い」と言う。でもそれは行為が問題なのではないかもしれない。わたしのやりかたやわたしの言いかたが問題なのかもしれない。わたしたちはいったいどこを見ているんだろう。わたしがほんとに何かをしたいと思ったとき、わたしはそれをどんなやりかたでやればいいんだろう。

   ◇◇◇


普段から自転車に鍵を掛けず自転車が盗難に遭うと「私が強く信じていなかったから」と考えることにしており、結果的に現在まで6台盗まれているという。


 Wikipedia様の一青窈の項目にこう書かれていてパソコンの前でひとり笑った。

   ◇◇◇

 最近聴いた音楽

パッセージパッセージ
(2000/09/27)
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コメント
一青窈の奇妙さというものが、時折り心を捉えることが、ぼくにはあるのですが、確かに彼女のうたよりも、この訴えのほうが断然奇妙です。彼女の自転車盗難にまつわるエピソードも、ぼくは日常生活のうえのだいたいのときは憶えていました。

一青窈の感情の起りを想像するに、ほんとうに「我慢ならない」から始まり、なぜ我慢ならないかというと、
>私は容易に働いて稼いだものではありません。
それは、
>たくさんのスタッフ、人間が関わって
>命のこもった音をつくり
>それがやがてお金に変わり
>私なりに一生懸命頑張って稼いだお金です。
だからであるようです。

だけどそれが、
>どうか、私のお金を世の中のために使って下さい。
に繋がるのは、ピンとこない……。
これは、ぼくがいままでに考えるきっかけももったことのない発想です。

しかし
>どうか、あなたよりもっと必要な人に
>そのお金を使ってください。
ならちょっと、近づいた気がしてきます。
一青窈の「我慢ならない」は怒りというよりもかなしみに近い印象を受けます。

>心からお願いします。
>使いみちを考えて下さい。
>その紙幣の通過者・一青窈より
ぼくの印象としては「我慢ならない」から始まり「我慢ならない」感情に戻ってきた感じを受けました。だから道徳的というよりは、どちらかというと至極感情的な。

これをよんでぼくはミスチルの桜井和寿さんのwiki様の項にかいてある、
>「金を稼ぐことに罪の意識を感じる」と公言している。桜井は自分が稼いだ金を、自らも設立に参加している非営利団体「ap bank」に出資している。
というのを図らずもおもいだしてしまうのですけれど。

いずれにせよ、奇妙さは段階を踏んで進行してゆきます。
ヤフーのコメント欄(いつもみちゃう)にも、だいたいおなじことがかいてありますが……、いったい誰が、誰にむけて、誰のために、偽善ということばは誰を、慰めるのでしょう。

なんだか底のほうから怖くなってきました……。
【2009/01/18 03:00】 | コーキチ #NEB76mhQ | [edit]
これはほんとは公式サイトの本文を全部読まなくちゃいけないのだと思います。

一青窈は「お金を返して」とは言っていないわけですけれど、たとえば怒りをあらわにして、

>私は容易に働いて稼いだものではありません。
>たくさんのスタッフ、人間が関わって
>命のこもった音をつくり
>それがやがてお金に変わり
>私なりに一生懸命頑張って稼いだお金です。

だから、「お金返せ!」的な方向に書けばそこに奇妙さは生じないと思うのです。それが本来の人間のありかたとして僕たちは認知していて、だから「世の中のためにお金を使ってください」なんて方向に持っていくと奇妙に思ってしまう(もっと強い言いかたをすれば「気持ちわるい」と思ってしまう)。人間じゃないんじゃないか、という気持ちがどこかにあるのかもしれません。

おっしゃるとおり一青窈はこれを書いているとき、書き終わったときにはそんなに怒りを感じてはいなかったんじゃないかと思います。悲しみのほうが大きかったと。「その紙幣の通過者」という言葉をニュースを載せるべきでした。達観している、なんなんだこれは、と思ってしまう。
不思議な感覚です。

あとこれは私信なのです。本来は僕たちが読むべきものじゃないのです。呼びかけ調にしたからこんなにグロテスクになってしまっていて、一青窈はマジで書いていると思うのですけれど、いずれにせよやっぱり不思議です。ここに生じている気持ち悪さがほんとうに気になります。

>道徳的というよりは、どちらかというと至極感情的

とおっしゃいますけれど、どうも僕の感覚では道徳的なにおいが消えません。僕は道徳の授業けっこう好きだったんですけれど……。

ミスチル桜井のほうはいくらなんでもこんな言いかたはしませんよね(歌いはするけれど)。しかし、「金を稼ぐことに罪の意識を感じる」というのはすごい感覚ですね(ある意味嫌味ですが…)。
お金をもうけているってことは税金を多くおさめているわけで、そのぶん一応僕らのところに還元されているわけなのに。

偽善じゃないんですよね、偽善なのはこういうことを書いている僕ですよ。「言語」は偽善になる可能性もあるけれど「行為」は偽善にはなりえないのではないかと思います。
でもグロテスクなんですよね。この感覚について、どうもちゃんと考えたほうがいいのではないかと思います。
【2009/01/18 14:44】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
 はじめまして。同じ趣味を持ち、なおかつ年の近い方を探している者です(. .)
 一青窈のメッセージに潜む奇妙な何かを、私も感じました。それが何なのかよく分かりません。ただ、無条件に人を信用している節があるように思われ、そして素性の知らない相手に対して、自分の意図する行動を促すのは、なんというか有名人的思考なのかなと思いました。自分のファン相手にするようなことを、犯罪者相手にやっている部分に、履き違えた奇妙さを感じたのかな~っていう気がします。
 ここで一つ仮定の話をすると、犯人が、同時に一青窈ファンだったとしたら。「俺は一青窈ちゃんになんてことしたんだっ!」と、犯人は、自責の念にかられて、彼女の言う通りの行動をするのかな、と何となく思います。でなければ、メッセージを見たとしても一笑に付すだけで、言うことを聞く筈がない、と何となく思います。しかし、犯人が、同時に一青窈ファンであることは、本人も想定してないかと思います(よく分かりませんが)。よって、このメッセージは、犯人に宛てられたものではなく、(一青窈も意図した訳ではないのですが)必然的にファンに該当する人たちに宛てられた物になってしまい(つまり、メッセージの誤配)、そこに奇妙さを感じるのかなと思いました。概して、一青窈の純粋さが空振りしたのかなという気がします。
 もしよろしければ、ちょくちょく本ブログを拝見させてください(. .)
【2009/01/19 18:29】 | クマーラ #jNKWluxY | [edit]
はじめまして。
返事が遅くなってしまってどうもすみません。
たぶんクマーラさんのおっしゃるとおり、一青窈も犯人が自分のファンだと思って書いているわけではないと思います。想定していたら、その思考回路もなかなかすごいと思いますけれど。
僕は一青窈のファンでも何でもないからこういうことが言えるのかもしれませんが、熱心なファンにこのメッセージをどう思うのか聞いてみたいところですよね。

拙いブログですが見てもらえたらとてもうれしいです。
【2009/01/21 16:25】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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