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[告知] 大人のカタリバSpecial

2009.01.18(22:30)

「大人のカタリバSpecial」に参加をすることにした(と言っても聴くだけだけれど)。「ブログをお持ちのかたは告知してください」とか書いてあったので、わたしは律儀に告知をすることにした。
 社会や国家、政治や経済なんて抽象概念にすぎない。そんなものは存在しないし、わたしは自分が政治や経済に関係しているとは思っていない。だから投票にも行かない。そしてもし今の世の中が悪いとしたら、そんなわたしにも当然責任の一端がある。

 今、東京で、400人が集まったら、いったい何が起きるんだろう?

 何も起こりはしない。それでいい。価値はあるだろう。でも意味はない。

 わたしは今子供たちが社会に何か訴えるのだとしたら、映画を撮ればいいと思う。ある子供が朝起きてから夜寝るまでの16時間ほどを映しつづけた映画を撮ればいい。その映画には条件があって、まず撮影者がその子供に存在を気づかれてはいけないこと。子供に何も言わないこと、子供に接しないこと(その時点で不可能なんだけれど)。わたしは日本中の人間にその映画を見せたらいいと思う。毎日毎日べつの子供でべつの映画を撮って、毎日毎日、見せたらいいと思う。
 社会は大人のものだ。「社会に出る」というのは会社に入って働くということだ。だから学生のうちはわたしたちは社会ではない。大人はそう言った。大人は子供を愛そうとはしない。学力低下を嘆き、体力低下を嘆き、「かわいそうだ」と言う。かわいそうかわいそうと言われつづけた子供は何を思うだろう。かわいそうと言うなら抱きしめてあげなくてはいけない。でもそれはしない。「かわいそう」と言うだけで何もしない。
「ひきこもり」も社会ではない。大人はそう言った。どの会社も大学で勉強してきたことなど評価してはくれない。「何をがんばりましたか?」と訊かれ「学校で勉強しました」と言っても誰も評価してくれない。それは実際に大学に入って何かをしないとわからない。自分に悩み自己嫌悪との戦いながらも大学をやめてしまった人間に会社は「来るな」と言う。試験すらも受けられない。そしてそういうことは実際にそうなってみないとわからない。感じられない。だからわたしたちは傷つく。
 経済が豊かになれば世の中が良い方向に向かっていると誰が決めたんだろう。どうしてアメリカは飛行機を貿易センタービルにつっこまれなくてはいけないんだろう。「テロは許さない」とアメリカは言った。ではアメリカはテロリストに許してもらおうとしたのだろうか。わたしにはわからない。
 わたしは大人に「わからない」と言ってほしい。「大人のカタリバSpecial」では12人の大人が集まって何かを話す。でも彼らは救世主じゃない。どこか異世界からこの日本社会を救うためにやってきた救世主じゃない。日本が今どこか悪いのであれば、もちろん、彼らにも責任があるのだと思う。くわえてわたしにも責任がある。
 わたしは偽善をしている。でも言葉で語れる範囲のことはできるだけ言っておいたほうがいいのかもしれない。あとは行為だと思う。そして「行為」がいちばん難しく、貴い。

   ◇◇◇

   追記

 ものすごいもやもやしている。たぶん俺の言っていることは間違っている。俺はこのイベントが間違っていると思っている。もしかしたら間違っていないのかもしれない。でもこのイベントに向けられる俺の感情はどうしようもなく間違っている。
 「NPO KATARIBA」の人間はまっすぐだろう。あえてださい言いかたをすれば熱血だ。

 カタリバが日光だとしたら、僕は緑様体です。
 そして、カタリバにいるみんなは僕にとっての雨です。
 僕は、カタリバという名の太陽によって光合成を行い、
 水と酸素を出します。
 雨と言う名の水分により、その芽を伸ばすのです。


 そうじゃないとこんなことは言わない。たまたまだが、こういう言葉を俺は最近よく見る。それは就職活動中の学生に向けて企業が発する言葉だ。だから「NPO KATARIBA」はすでに社会なのだと俺は思う。社会ではない学生とすでに社会である学生とのあいだでどうやって会話をすればいいのだろう。
 苔の生えたじめじめしたところで生きざるをえない、どうしても彼らのように積極的に行動できない人間はどうすればいいんだろう。社会というのは苔の上の人間に「入ってくるな」と平気で言う。「おまえは無能なんだから」と(「根の暗い人間大歓迎!」という会社を俺はひとつも知らない。冗談ではなく、あれば応募者が殺到すると思う。潰れるかもしれないけど)。
「発言は特権だ」と俺は言った。「カタリバ」というものはすでに特権なのだ。発言できる人間は限られている。そしてそこで発言できる人間は喜んで社会に迎えいれられる。苔の上の人間の言葉は誰も聞くことができない。何故なら彼らはしゃべらないからだ。じゃあ彼らはどうやって救われればいいのだろう。
 しゃべることができる人間が400人集まってこれからの日本社会のことを話しあったとして、彼らは本当にしゃべれない人間のことを考えてくれるのだろうか。日本社会は本当に日本人で構成されているのだろうか。もししゃべることができる日本人としゃべることができない日本人に無理やり分けるとしたら、日本社会はしゃべることができる日本人のみで構成されているという可能性はないのだろうか。彼らはしゃべれない人間の気持ちをどうやって想像するだろう。想像しようがないのだ。何故ならしゃべれない人間はしゃべらないからだ。
 
(少し文学の話をする。「個人的な問題にすぎないのにそれを書いて読んでもらえる世界として文学があるかのようです。」と俺はある人に言われた。しゃべることができないというのは個人的な問題だ。しゃべれない人間はしゃべれないから俺みたいに文学を書こうとするかもしれず、俺はそのために文学があると無自覚的に勘違いしていたふしがあるけれど、たぶんそれは間違っている。ではしゃべれない人間はどうしたらいいか。結論を言えば「しゃべれるようになれ!」ということだが、それが難しいのは多くの人が知っている。そして社会はそういうことを教えてくれない。何故なら社会はしゃべれない人がしゃべれないということを認識すらしていないからだ。存在すら認めていないからだ。だから俺たちは傷つき自己嫌悪し苦悩しその慰めとして文学を読み結果として頭が良くなったと勘違いしてしゃべれる人間を見下す。最低なプロセスだ。最低なプロセス)

「大人のカタリバSpecial」は間違いなく偽善的な要素を含んでいると思う。そうではなかったら、しゃべれない子供を400人集めて4時間ぶっつづけで黙りつづけるべきなのだ。でも誰もしない。あたりまえのように誰もそんなことはしようとしない。「語り場」は嬉々としてつくられるのに「語られない場」はつくられない。しゃべることのできる人間が用意した「語り場」でしゃべることのできない人間は何をすればいいのだろう。
 俺にはよくわからない。俺はもちろんしゃべることができない責任をしゃべることのできる人間におしつけようとしている。だめだな。おそらくまだまだ何かが違っている。なんだろうな。いったい、なんだってんだろうな。

   ◇◇◇

 すっかり告知じゃなくなったけれど、だからこそしゃべれない人間は「大人のカタリバSpecial」に出かけましょう。




コメント
はじめまして。
カタリバの今村亮と言います。

「だからこそ」「出かけましょう。」という態度はとても好きです。

それだけを言いたいと思いました。2/1を楽しみにしましょう。すくなくとも私は楽しみです。それではおやすみなさい。

【2009/01/25 22:52】 | ryo imam #- | [edit]
はじめまして。

(いくぶんわざとではあるのですけれど)ずいぶん偏ったことを書いてすみません。「カタリバ」の誰かしらは読むだろうと思って書いたので、読んでもらってよかったと思います。どうもありがとうございます。
「やろうよ」と言っても「やらない」人間はいるし、「できるよ」と言ってもできない人間もいるし、「死ぬな」と言っても死ぬ人間もいます。そういうときどうしたらいいのか、と思って書きました。答えはなんとなくわかってはいますけれど、それは僕が気に入る答えではなかったので、もやもやしたままでした。

僕が言っても信じてもらえないかもしれませんが、「カタリバ」の活動は良いものだと思います。何故なら「行為」と「肯定」があるからです。それは実際に貴いものですし、何かを変えるためには必要不可欠なものです。だから何の嫌味でもなく「カタリバ」の活動をがんばっていただきたいと思います。

2/1は僕も(いろいろな意味で)楽しみですので平気です(笑)
わざわざ行為をこきおろしたりするためにイベントに行きはしません。
【2009/01/26 06:27】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
お。

コメントありがとうございます。僕もなかなか疑い深いほうなので結構「もやもや」しますが、桜井さんの言葉を借りるならば「行為」だけはとても信じています。もやもや無しで。「肯定」はどうだろ、半々かな。

当日ぜひ声をかけてください。気づいてもらえるように目立ちます。


ちなみに桜井さんの文章好きです。文学というコンテンツのポテンシャルに最近注目しています。ではでは、すべては2/1に。
【2009/01/29 01:50】 | ryo imam #- | [edit]
いきなり余談から入りますけれど(ごごごごめんなさい!)、
僕の知り合いは「言葉がそのまま行為となるような言葉が欲しい」と言っていました。そうなれば、言葉も(文学も)また違った側面を持つかもしれません。でも言葉は行為の代償ではないとも同時に思います、そういったときに初めて言葉は価値を持つのかもしれません。

「カタリバ」が肯定を指向していなかったらすみません、今思えばものすごく適当に書きました(笑)
趣向の話です、否定ばっかりしていたので肯定ぐらいしようと思ったのです。

>当日ぜひ声をかけてください。気づいてもらえるように目立ちます。

ひっこみじあんのうえ100%人見知りするので声をかけられる確率は2%くらいです。奇跡が起きれば声をかけます。

>ちなみに桜井さんの文章好きです。

ありがとうございます。超うれしい。
【2009/01/30 06:40】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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