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おもいで

2009.01.30(06:24)

 現代詩手帖や文芸誌が発行されるたびにあたしは精神に深刻な痛みを受けていて、だから月の終わりとか月の初めとかはたいていしょげているのだけれど、とにかく、あたしはそういうときに限って何かを書いてしまう。 
 普段本を読んだり映画を見たりしかしない、この上もなく貧しい生活をしているものだから、あたしのブログにはいつも本のことや映画のことしか書かれていないわけだけれど、ときどき迷うのは、たとえば本の感想を「日記」のカテゴリに書くか「書評」のカテゴリに書くかということで、それはあたしにとってずいぶん深刻な問題に思えてしまう。もしこの世界にピュアな文章があるとしたらそれは書いた本人が死んでしまってそれ以降世界中の誰にも読まれなかった文章で、たとえばひきだしの奥にしまってある日記の文章というのはそれに近く、けれどピュアと言ってもピュアというだけで価値がでるわけでもないのだし、その手の文章は宇宙のどこかで鳴る一音みたいなはかなくてちょっと悲しい存在のように思える。
 あたしは思い出をつくりたいだけなのだと思う。「本を読んだ」というのは思い出なのだと思う。過去はぜんぶ悲しい、けれど未来もまたぜんぶ悲しいのかもしれない、だからあたしは過剰な思い出を欲している。

 アルバイトの休憩時間に詩集を読んでいることが嫌になって、「アルバイトの休憩時間的なことをしなくちゃいけない!」と思って週刊新潮とか週刊文春とかを読んでみると、これがけっこうおもしろくてびっくりした。記事の内容はたとえば「柴咲コウが妻夫木聡の携帯電話をへしおった(!)」みたいなあたしが至極まっとうにどうにかこうにか生きていくうえでリトマス紙の次くらいにはいらないものだけれど、でも、彼ら記者だってまさかそれが高尚なものだと、その情報が世界を左右するものだと思って書いているわけではないだろうし、くだらないものをくだらないものと発信していくその行為にはどんなものであっても敵わないし、最近はそこに絶対何か大切なものがあるはずだ、と思っている。
 三角みづ紀の「カナシヤル」のなかの「回帰線」を読んであたしは目をぬぐった、あたしは鈍感だから自分が感動しているのか眠いのかよくわからず、その眠さというのももしかしたら感動体験に含まれるのではないかとすこしだけ思っているふしもあって、でも、あたしはサリンジャーの「フラニー」を読んで以来もはやどうあってもサリンジャーを平静に読めなくなってしまっていて、それと同じ意味で、三角みづ紀の詩も今のあたしの状態だとまともに読むことができない。この詩はどう読んでも「エヴァ」を連想してしまうのだけれど、「エヴァ」がグロテスクさを抱えこんでいるならば三角みづ紀は「醜さ」を抱えこんでいると思う。
「存在自体が悲しい」という、そういうものがこの世界にはどうしようもなくあって、あたしはそういうものを前にすると「生きろよ」とも「死ねよ」とも言えなくなってしまう、あたしにはだからそういうものを前にすると「悲しい」としか言えなくなってしまう、肯定するのがへたなだけかもしれないけれど、とにかくあたしはそういう人間だと思う。三角みづ紀の詩の透明さのなかには確かにグロがある、けれどあたしはそれをグロではなくて「醜さ」と呼びたい、彼女は懺悔しているのかもしれない、でも誰も彼女を許せはしないと思う。たぶん、誰も彼女に怒ってないのだから。「許す」や「許さない」という行為はコミュニケーションだとあたしはかつて書いた、だから「テロを許さない」という言葉はきっとどこかおかしいのだと思う、「テロは許さない」と言ってもテロがなくなるとはあたしはどうしても思えない。「懺悔」が絶望的に悲しくなるのはそれが拒否された瞬間ではなく、それが通じなかった瞬間なのかもしれない、彼女はだから見当違いのことをしているのかもしれない、懺悔する必要も誰かに許される必要もまるでないのに、それでももしかしたら誰かに許されることでしか消えないかもしれない彼女の悲しみはあたしをたまらなく悲しくさせる。
「存在自体が悲しい」というのはもちろん矛盾している、誰も怒っていないのに懺悔するという行為ももちろん矛盾している、でもその矛盾の行為は彼女が感じていることとして確かにあるし、彼女はそう感じている、たったそれだけのことなのだと思う。そして悲しいのはただその点だけにあって、急に俗なことを言うけれど、だからこそあたしは彼女を「人間」なのだと思う。その事実、圧倒的な事実を前にしてあたしはやっぱり口をつぐんでしまうし、どうしていいかわからなくなってしまう。

父だけが
所在なさげに
アスファルトに倒れている少女の
ぽっかりあいたくちに
釣り糸をたらす
お父さん
それ、わたしなのよ


 彼女は何かを失ってしまっているし、何かをとりもどそうとしているし、何かを怖がっている、ように見える。何を失ってしまい何をとりもどすのか、彼女にとってもわからないだろうし、けれどその感覚だけは確かに存在する。 
 あたしは今回ずっと同じことを書いた、あと何十枚も同じことを書くことができる、けれどあたしはもう書かない、あたしの言葉はここで消える、ここで消えるべきだ。これは書評じゃない、あたしの日記で、あたしの思い出だ。誰にも渡してなんかやるもんか。




コメント
「テロを許さない」というのは「ウソをつくのはいけない」というのと同程度に対象を否定的に認知する言葉だと思います。テロリストはいたずら電話の犯人と同じく認知されることが存在意義なのですから、テロという概念が誰にも共有されなくなる時がテロの消滅する時なんでしょうね。むろん、その時にだって「自爆殺人」は起こるのでしょうけど・・・。
【2009/01/30 17:27】 | 上田洋一 #- | [edit]
それぞれのテロリストが何を望んでいるのかわからない、ということが問題だと思います。僕はそれを知らないので、たとえば9.11のテロリストがけっきょく何を求めているのか、できればわかりやすく誰かに教えてもらいたいです。馬鹿みたいな話ですけれど、世界中の人がテロリストの要求をもっと知ればテロも少なくなるんじゃないのかなあと適当に思います。
【2009/01/31 14:39】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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