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大人のカタリバ Special@サイエンスホール Vol.3

2009.02.05(03:34)

青い鳥青い鳥
(2004/09/23)
tobaccojuice松本敏将

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「大人のカタリバ Special」で「遭難フリーター」という映画が紹介されていた。わたしはナレーションが入る映画(いきなり「俺はキャノンの派遣社員だ」とか入る)には速攻で警戒する癖を持っているのであの映画をどうこういうつもりはなく、そうじゃなくて、もっと重要なことが言いたい。
 彼はあの場では「つらいめにあった派遣社員」という役割で呼ばれたと思う。しかし同時に彼は映画のなかで「俺はNHKに被害者にしたてあげられている」というような意味のことを主張した。NHKのドキュメンタリーは最初に結論ありきの撮りかたをしていて、何かをそのまま撮ろうとするんじゃなく、自分たちの撮りたいように誘導して撮っているのだと。おそらく彼は正しいと思う。けれど、そういうものとは関係なく、彼は「大人のカタリバ Special」で「かわいそうな派遣社員」として呼ばれたのだと思う。彼は自ら「かわいそうな派遣社員の役をパフォーマンス」している、でも、わたしは彼がかわいそうだとは思えない。何故なら「映画を撮れる」からだ。彼が映画を撮ってそれが公共の場で評価される、その結果として「カタリバ Special」で語ることができる。だから彼はもう「しゃべれる人」になってしまったのだ。そのちぐはぐさは何だって言うんだろう。

   ◇◇◇

 わたしは「大人のカタリバ Special」に来た人が書いた文章をいくつか読んだ。誰も彼もが政治について熱心に語る人だった。
 わたしが言っていることは、彼ら彼女らとずれているように思う。それはけっきょくわたしが文学的な価値観で政治にコミットメントしているからだと思って、たとえばもし仮にわたしがあの壇上にいたら、「ゴダールは『ゆでたまごをつくることも政治である』と言ったのです。でも、あなたたちは政治について話しあうときに法律がどうとか政策がどうとか経済がどうとかそういう話しかしない。わたしたちはこの壇上で政治のためにゴダールの話やカート・ヴォネガットの話をしてみるべきなのです」とか、「もうわたしたちはたっぷり2時間も政治の話をしました。もうじゅうぶんなのです。だからあとの2時間は黙っていればいいんじゃないでしょうか」とか、たぶん、そういうことを言ったと思う。 
 わたしはとてもせまい範囲の話をしている。わたしを政治を文学に利用しているだけだ。目的が違うのだ。わたしは世界を良いものにしようなんてこれっぽっちも思っていない。わたしは自己中心的な話をしている。これはもはや文学なんて呼べないのかもしれない。
 サルトルは「目の前に飢えた子供がいるのに文学なんてあったって何の意味がある?」と言った。その場で詩を朗読したとしても子供は死ぬだけだ。それから数十年後に高橋源一郎は「人間が必要とするのは言葉なのです。瓦礫の下敷きになった人が必要とするのは治療でも食料でもなく、『だいじょうぶだよ。今助けるよ』という言葉なのです」と言った。わたしにはどちらも正しいように思える。
 けれど「だいじょうぶだよ。今助けるよ」と言っても何もしなければ人は死ぬ。「大人のカタリバ Special」で話しあっているときに何人の人が死んだだろう。
 わたしにはわからない。でも「大人のカタリバ Special」は良いことをしたと思う。「大人のカタリバ Special」を責めるわけにはいかない。わたしは「コカ・コーラの商品を買ったおまえはパレスチナの人間を間接的に殺しているんだぜ」と言う人に静かな怒りを感じる。彼の言うことは正しい、わたしは間接的にパレスチナの人間を殺しているかもしれない。でも同時にわたしはわたしがパレスチナの人間を殺していることを悲しめない。だからわたしはその正しさを信じない。
 何が起こっているのかわたしにはわからない。具体的なことも抽象的なことも何もわからない。
「大人のカタリバ Special」に「NPO的な活動をしている人やデモをする人はその行為が青春になっている」と言った人がいた。わたしは彼について「よくわたしのことをわかっている」と思った。わたしは青春をやりなおしている。失われた青春を文学によってつくろい、とりもどそうとしている。他人がどう言うかわたしにはわからないけれど、それは決して美しいものではなく、醜いものだと思える。
「デモの青春化」を悪いことのように言う人のことのことがよくわからない。「デモの青春化」を糾弾する行為は青春じゃないんだろうか。「デモの青春化」が糾弾されるとすれば、それが純粋な社会貢献ではなく自己救済に陥っているという点だと思う。まるで「他者のため」のようにふるまいながら「自分のため」というデモ行為は醜いかもしれない。けれど、けれど、それを糾弾する行為に醜さは生まれないんだろうか。わたしにはわからない。ほんとうにわからない。まるで世の中すべてが醜い人みたいじゃないか。
 そしてそういう醜さから抜けだすための幻想として「文学」(芸術)が用意されている。わたしはその文学という武器を使って「大人のカタリバ Special」という場所を清浄化しようとしている。あの場所をピュアなものに変えようとしている。
 騙されてはいけない。清浄なものに変えようとするその行為こそがもっとも「傲慢」なことだ。安全地帯から核を落とすようなものだ。相手から反論があってもわたしは「文学的にわけのわからないこと」を言って余裕で逃げるかもしれない。

   ◇◇◇

「わたしのゼミに来なさい」と言った人がいた。中島義道の「働くことがイヤな人のための本」を読んだときにも思ったけれど、「来なさい」と言って行けない人はどうしたらいいんだろう。「何かが見つかる」と彼は言った。わたしは「でもその見つかったものは数ヶ月でなくなっちゃうんだろ?」と思った。わたしみたいなだめな人間はすぐそういうことを思って行かないのだけれど(「家から遠い~」とか)、ほんとはそんな馬鹿なことを言う前に行くべきなのだ。でもわたしは彼のゼミに絶対に行かないことを知っている。わたしにはそんな勇気はないからだ。
 あの場所には多くの人がいた。わたしは一言もしゃべらなかったけれど、「こういう人が優良企業に就職するんだろう」とずいぶん醜いことを考えた。わたしの予感はなんとなく合っている気がする。 

 なにがおもしろいってもう「大人のカタリバ Special」となんの関係もないところがおもしろい。俺のカタリバ Special。




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