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大人のカタリバ Special@サイエンスホール Vol.4

2009.02.08(22:28)

「大人のカタリバ Special」についての東京新聞の記事を全文引用する。

   ◇◇◇

<記者発>若者に届かぬ言葉

2009年2月6日 朝刊

 若い世代に自分の暮らしと政治とのつながりを知ってもらう-。そんなうたい文句に誘われ、都内で開かれた討論イベント「格差時代の夜明け前」(NPOカタリバ主催)を聞きに行った。

 「大人」の代表として国会議員と学者、政治記者、「若者」代表として学生やフリーターらが壇上に並び、政治や格差問題を議論。学生や二、三十代のサラリーマンら約四百人が熱心に耳を傾けた。

 盛り上がってきたところで、突然、若者側代表の一人が「議論がかみ合っていない。(大人側の話は)言葉が難しく分からない」とかみついた。会場からも「そうだ」との声があがった。

 大人側の発言は、私たちがふだん記事を書くときに使う表現とそう変わらない。むしろ、意識的に分かりやすく話していたと思っていた。それが若者には通じないのだ。この感覚のズレは何なのか。政治記事が若者に読まれないのも無理はないと、衝撃を受けた。

 さらに司会者が会場に「マスコミの報道は信用できるか」と問うと、大半がノー。討論会に参加する若者は政治に関心があるはずなのに、政治記事を理解できず、信用もしていない。そんな現実を突きつけられた。

 ただ、救いもあった。「次の衆院選に必ず行くか」との司会者の問いには、参加者のほとんどが行くと答えた。投票の判断材料を提供するのは私たちの仕事だ。どう若者の心に届く記事を書くか。難しい宿題をもらった。 (清水孝幸)


   ◇◇◇

「もしかしたらマスコミは自分のことしか考えていないんじゃないのか」とわたしは思った。
「難しい宿題をもらった」なんて自らを幼児化するような言葉を使っては若者におもねろうとしているようにしかわたしは感じられないし、それを「気がきいている」とかもしかしたら思っているんじゃないの?と意地悪なわたしはどうしても考えてしまうのだ。
 わたしは政治が「つまらない」と思う。
「政治の言葉は難しい」とはよく言われる。正直、わたしもそうだと思う。だからわからない。でも「政治がつまらない」とは言われているだろうか。政治なんてぜんぜんおもしろくない。だから私は政治にコミットメントしない。「勉強しなくてはわからない」ということがあたりまえのように思われている政治や経済、「勉強しなくてはわからない」と同じく思われている文学、どっちもわたしにはよくわからない。
「かんたんに書」けば「若者の心に届く」とはかぎらない。売れるものが良いとはかぎらないとは誰でも知っているけれど、知らないふりをしながらわたしたちは過ごしている。
「どう若者の心に届く記事を書くか」
 と記者は書いた。
「文体変えろよ」
 とわたしは思った。それだけじゃん。どの記事もおんなし文体で書いてあるから、みんなどこに政治のことが書いてあるかわかんないんじゃないのかしらん。
 ある編集者が「記事に自分の意見なんて書いちゃいけないんですよ。自分のことなんてどうでもいいんです。自分が別のことを思っていても、誌面にあわせて書かなくちゃいけない」と言った。
 書いた人はしゃべらない。しゃべるのは書かれた言葉だ。わざと青臭いことを言うけれど、ほんとにそんな言葉があたしの胸に届くと彼らは思っているんだろうか。

 最後に「選挙に行くか?」と問われ大半が「イエス」と答えたことを「救い」だと記者は言った。それはわたしにとって絶望だった。わたしはその質問にやはりむかついて意地で「ノー」と答えた。何度も言うけれどそういう問いを発生させないように「カタリバ」は設定されたのではなかっただろうか、そして「選挙に行く」という選択肢を「良いこと」だと本気で思っているらしいマスコミを誰が信頼するんだろうか。それはわたしにとってぜつぼうだった。




コメント
マスコミなんてそんなものです。結局は読者を馬鹿にしている、だから易しい言葉で説明してやろう、という発想で記事を書こうとする。でも、この討論会での大人と若者の言葉の食い違いは、単純に彼等が考えている意味での「言葉の難しさ」に起因するものではない気がします。

それに、政治に無関心な者が、無思慮に選挙に行き投票することは、決して良いことには思えません。なぜなら、彼らは空疎な言葉を操る政治家やマスコミにとって、絶好のカモだからです。最も言葉巧みに国民を扇動したものが政権を握るべきだ、この記者はそう言いたいのでしょうか。だったら素直にそう書けば、多少は共感できなくもないのですが。
【2009/02/09 18:13】 | myshkin #- | [edit]
> 大人側の発言は、私たちがふだん記事を書くときに使う表現とそう変わらない。
 ここが気になったんですけど、新聞の記事の文章って、何かが分かる(言い換えれば、知識を得る)ために書いてあるのではなく、何かをただ伝えるために書いてあるのではないかという気がします。
 だから、例えば、政治の知識に疎い人が新聞の政治面を読むと、読むそばから次々に疑問が湧いてくるという事態になっていまうのではないかと思います。

>それが若者には通じないのだ。この感覚のズレは何なのか。
 「感覚」なんて曖昧な表現をしているところがいただけない気がします。この記者はジェネレーションギャップを、言葉が通じない根拠に据えているのですかね。

 政治が面白くないというのは同感です。それは、現代社会の政治(みたいなもの)が私たちと関係がないからではないかと思います。とはいえ、当然、本来の政治は私たちと密接に関わり合いのあるものだと思います。にも関わらず、今日において政治に関わる議論をした際、政治の本質からどんどん離れていくような気がして、私は面白くない気がします。
【2009/02/09 19:37】 | クマーラ #jNKWluxY | [edit]
> マスコミなんてそんなものです。結局は読者を馬鹿にしている、だから易しい言葉で説明してやろう、という発想で記事を書こうとする。

しかし同時に、僕はマスコミを馬鹿にしているのです。そんなものなのです。
ジャーナリズムが「わかりやすい言葉」で説明してやろうと思うのはあたりまえなのです、全国各地で人々が同じことを話題にできるのはテレビや新聞の言葉があるからです。そのために彼らは文学になってはいけなかったのです。
黒田三郎という詩人は「今日現在の言葉を作っているのはマスコミだ」ともう何十年も前に言いました。僕もそのとおりだと思います。
文学の価値観に照らしあわせて「マスコミは~~だからいかん」というのはとてもかんたんなのです。そしてその力を使って無理やりにマスコミを統制したらマスコミを殺すことになります。だから文学なんてきっと殺人者なのです。上空から核を落とすようなものです。でも地上を這いずりまわって「話しあおう」というのはそれよりとても難しいのです。
これは僕にはよくわからない問題です。この記事は間違っています。どうぞ信用なさらないでください。「マスコミを信じない」という言説と「マスコミを信じないというやつを信じない」という言説にどれほどの違いがあるのでしょうか。


> それに、政治に無関心な者が、無思慮に選挙に行き投票することは、決して良いことには思えません。なぜなら、彼らは空疎な言葉を操る政治家やマスコミにとって、絶好のカモだからです。

「政治家の言葉は空疎だ」と言ったのは高橋源一郎です。僕でもあなたでもないのです。「空疎な言葉」とは嘘をついていることです、ほんとうは思ってもいないことをしゃべるということです。
でもそれはきっとシステムや関係に起因するのです。システムや他人同士の関係があるから、ときに僕らは空疎な言葉をしゃべるのではないでしょうか。政治や経済はシステムです。システムが失われたときにたくさんの人間は死ぬでしょう。

また、「政治家の言葉」が空疎だと言うならば「政治家の言葉は空疎だと言うこと」じたいも空疎ではないのでしょうか。これも僕にはよくわかりません。

「選挙に行くのが良いことかどうかわからない」なんてすごい適当なことを書いたのですが、これはほんとは一回でも選挙に行った人間が書かないといけないのです。僕は何も考えないで書きました。無思慮です。実際に選挙に行った人間のほうが思慮しているのです。
無思慮なものでも選挙に行くというその行為に僕は少なからずの敬意を表したいです。くわえて、僕がわからないのは、どうしたら人間が政治に関心を持ち、無思慮ではなくなるのかということです。戦争を起こすか経済がもっと悪くなればもっとみんな政治・経済についてまともに考えるようになるかもしれません。社会がわりかしまともになって、やっと僕たちは「政治や経済にとりあえず無関心でも生きていける」ようになったのです。血を流して革命する必要をとりあえず感じなくなったのです。そしてそういう世界になって僕たちは平気で「民衆は何も考えていない、馬鹿だ」と言っているのです。インターネットがあるから誰だって言えるのです。僕みたいな馬鹿でも言えるのです。
「経済についてもっと考えたほうがいいんじゃないの?」と言ったホリエモンは社会に糾弾されました。彼はあたりまえのことを言ったのです。でも社会やマスコミは彼を糾弾したのです。

ふむ、難しい問題です。なにひとつわかりません。
【2009/02/10 21:21】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
>新聞の記事の文章って、何かが分かる(言い換えれば、知識を得る)ために書いてあるのではなく、何かをただ伝えるために書いてあるのではないかという気がします。

そうかもしれません。「新聞を読め」と小学校中学校の社会の先生がよく言っていました。でも新聞なんか読んだってやっぱりぜんぜんわからないんですね。
パレスチナ問題でもたくさんの用語が出てきます。そういうのを無視してもわからないし、「わかった気にすらならない」。シーア派、スンニ派とか言われても、わかるわけないのです。
だから「伝えわるけれど伝わっていない」ということだと思います。新聞なんか(とりあえず)読まなくていいんですよ、「マンガ 政治の仕組み!」的な本を一冊読んだほうが(とりあえず)有益です。学校でもっとそういう本を紹介すればいいんです。というか僕に紹介してほしい。

>政治が面白くないというのは同感です。

でんじろう先生が「身近な科学を体験しよう」などと言って身近なものを使っておもしろい科学実験をしていますが、あれって、そんなにおもしろくないんじゃないかと思います。「学校の勉強に比べておもしろい」じゃ意味がなくて、「テレビゲームよりおもしろい」じゃなきゃ誰も科学の勉強などしません(僕はやらなかった、というかそれなりにやりましたが、良い点数がとれてまわりの人にちやほやされるのがうれしかっただけです)。
政治も科学も同じで、いくら政治は身近なものだと言ってもその実感なんてないし、けっきょくのところつまらないし、「勉強しなくてもすんじゃう」ものですから、難しい問題だと思います。
【2009/02/10 22:10】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
僕の適当なコメントに対して、わざわざちゃんとお返事をいただき、ありがとうございます。

どうやら根源的懐疑に陥っておられるようですね。

僕のコメントは極めて感情的なものです。僕はマスコミや政治家が単純に嫌いなのです。ただし、彼等をただ自分の論理で批判するのはた易い、というのはまったくもってその通りですね。もちろん、それをわかった上で批判しているのですが。

仰るとおり、現代社会は誰も把握しきれないほど巨大で複雑なシステムですね。そして確かに、システムが少しでも損なわれれば、たくさんの人が死ぬでしょう。今回の金融危機がいい例です。したがってシステムの管理、つまり、政治や経済は重要ですが、その重要さは言葉の重要さとは違う、これはプラトンが「国家」で言おうとしたことだと思います。だから、政治や経済に関心がないなら、関心を敢えて喚起する必要は無い、と思うんですが。などと言うと、誤解を招きそうですが。
僕らは2000年前に比べれば、確かにいくらか賢くなりました。つまり、少しずつ時間をかけて、より高度なシステムと、近代的な共通理念を手に入れましたが、しかし本質的な社会のカタチは2000年前とそれほど変わってはいないのではないでしょうか。システムの維持に空疎な言葉が必要であるというのは、おそらく真理でしょうが、だからといって空疎な言葉を許容してよいことにはならないと思います。いや、正直に告白すると、僕もホントはわからないんです…。


もうひとつ、「空疎な言葉」というのは高橋源一郎の言葉ではありません。その直前に、僕は彼の本を読んでいたので、もちろんオリジンは彼の本です。しかし、「考え」に所有格が付かないように、言葉にも所有格は付かないものだと思っています。その言葉を高橋源一郎が言おうが、キリストが言おうが、その辺の浮浪者が言おうが、その言葉の持つ力こそ違えど、本質的な価値に違いはない、というのが僕のスタンスです。というか、その言葉は既に彼を離れているのです。いや、これは蛇足でした。
著作権うんぬんの話はもちろん別ですけどね(笑)
【2009/02/12 19:54】 | myshkin #- | [edit]
思いきり自分の問題をあなたにぶつけました。もうしわけありません。これは僕の問題です。僕のコメントは限りなく最低に近いくらい悪かったです。

>どうやら根源的懐疑に陥っておられるようですね。

そのとおりです。今のところ、そんなにわるいことではないと思っています。文学を妄信していた頃より、すこしだけましかなと思います。

僕はどれくらいマスコミや政治家のことを知っているのでしょう。少なくとも僕は知らないのです。僕は政治家と話したことはないですしマスコミの人間と話したこともなく、その内実も知りません。
その僕が彼らの言葉を空疎だと言えるのは「文学」が根底にあるからです。文学をひきつれて僕は政治の言葉を糾弾しました。でも実は僕は文学者のことなど何も知らないし、文学のことも何もわからないのです。
だったら僕らはそのときどうすればいいんだ、と思うのです。

プラトンの「国家」なんてもちろん読んでないのですけれど、

>政治や経済に関心がないなら、関心を敢えて喚起する必要は無い

何故そう思うのか聞きたいです。
それは文学に対しても同じことが言えるのか、つまり文学に関心がないなら関心を敢えて喚起する必要は無いのかも聞きたいです。




「『政治家の言葉は空疎だ』と言ったのは高橋源一郎です。僕でもあなたでもないのです。」

僕はこう言いました。これはほんとうに最低な言いかたです。たぶんものすごく不快に感じたと思います。申しわけないです。

>その言葉を高橋源一郎が言おうが、キリストが言おうが、その辺の浮浪者が言おうが、その言葉の持つ力こそ違えど、本質的な価値に違いはない、というのが僕のスタンスです。

僕はそのへんのところが信じられないのです。「言葉の持つ力」と「本質的な価値」の違いが僕にはよくわからないのですが、「誰が言ったか」はとても重要な問題だと僕は思います。
僕は友達と空疎な会話をします。でも同じことを本で読もうとは思いません。
高橋源一郎が薦める本はおもしろいです。それは「本がおもしろいから」ではなく、「高橋源一郎が薦めている」からおもしろいのです。馬鹿みたいな話ですが(僕にとって)本当の話です。
「離れている」と感じるのはすばらしいことだと思います。僕はまだ言葉にとらわれています。正直に話せば、石田衣良が何を言っても「けっ」としか思いませんが(ややオーバーですけど)、ゴダールが何か言えば「これは何か大事なことかもしれない。うむむ」とか思うのです。
「愛してる」には所有格がつきます。「私」の「愛してる」が大事だと僕は思います。極論だと思うでしょうか。極論です。詐術かもしれません。
これが「言葉の持つ力の違い」かもしれませんね。でも言ったように「本質的な価値」というのが僕にはよくわからないのです。


あと、本当に失礼ながら、これも全面的に僕が悪く、僕の問題なのですが、リンクを削除させていただきました。
これを機会にお話させていただくと、僕はあなたのブログをとても平静には見ることができません。というのも、僕はずっと前(もしかしたら今も)あなたと同じように、あなたと同じような書きかたで文学について何か書いていたと僕自身が思えるからです。でもなんだかそれは僕にとって、(村上春樹的言語に逃げれば)とても居心地の悪いことなのです。
【2009/02/12 21:44】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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