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やさしいひとたち

2009.03.23(09:13)

 あたしはどこまで行っても自慰的にしか文学できないこと、思考できないこと、生きられないこと、を醜いと思った。そしてあたしはそれがとても嫌だから「世界を愛する」と言った。そとの世界に目を向けることだと言った。でもある人は「内とか外とか、そういったものはこころの隙間が生みだした物語にすぎない」と言った。そうかもしれない、とあたしは思う。
 どうして、あたしは、他人を愛したり、他人に優しくしたりすることが自らの醜さをかきけすことだなんてなんの疑問もなく信じこんでしまったんだろう。「自分の問題にすぎないものを誰かに読んでもらうために文学という世界があるようだ」とやはりある人に言われた。その人の言っていることは正しいと思う。そしておそらくそれと同じように、他人は僕に愛されるために存在しているのではないと思う。僕はあるブログにコメントしたり、ある人にメールを書いたりするとき、何度となく自分に向かって書いているように感じることがあった。僕は他人に話しかけるふりをして自分に話しかけようとしただけだった。ただ自分がものを考えたいがために、自分が言いたいことを言いたいがために、他人に何か言いつづけた。僕は他人を愛そうとこころみることをとおして自分を愛しつづけただけだった。
 世界を愛するとか、自分を愛するとか、自分のことを考えるとか、他人のことを考えるとか、もう、そういうことじゃないのかもしれない。あたしはときどきほんとに何をやっているんだろうと思う。
 ある種の人たちがあたしにメールをくれた。でもあたしはなんだかそれがとても奇妙なことに思えて、ときどき、「でも、僕は何ひとつまともなことは書いてはいないのです。あなたは僕に騙されているだけです」と書いた。でも、僕がそう書くと何故かその人たちは「騙してください」と書いた。「いったい何が起こっているんだろう」とあたしは思う、もちろん、それはそんなことを平気で書く僕が悪いに決まっているのだけれど、そうじゃなく、「騙してください」と誰かが明示的にも暗示的にも言うとき、僕はまた僕であることを許され、甘え、他人を放棄する。
 世界(他人)を愛することと他人と関わろうとすることは違うのだと思う。あたしは断然Mなので、世界を憎悪するよりも自分を憎悪することを選択する。けれどそれはけっきょくのところ、自分を愛しているとあたしが知っているからだ。「自分のことが嫌いですか?」とあたしはある人に訊かれた。「……嫌いですね。嫌いだと思います」と僕は答えた。でも僕は嘘をついた、「よくわからない」とあたしは答えるべきだった。自分のことを嫌いと言っても、好きと言っても、少なくともあたしにとってそんなに大差はない。あたしは心の底からあたしを肯定しているから、なんとでも言える。あたしができるのは自分を肯定することだけだ。この文章も、もちろん肯定のためだけに書いている。
「世界を愛する」か「自分を愛する」か、そんな二元論は間違っているし、「世界を愛する」か「世界を憎悪する」か、その二元論も間違っている。
 あたしはある人に「文学は社会にどう役に立つのか?」と訊かれて答えられなかった。だから「役に立つものがいったい何の役に立つのか?」とあたしは言った。「意味のあるものにいったいどんな意味があるのか?」とあたしは言った。そして「文学が社会的にどう役に立つのか、その角度だけでしか社会と文学の関係が語られないのはおかしい」と言った。問いはいつも逃亡だった。「文学が社会にどう役に立つのか?」という問いを受けたとき、「それはあまりにも社会的な問いにすぎて、文学の立場からそれに答えることはできない」とあたしは思った。あたしはつまり社会と文学という二元論をうちだし、それによってあらゆる問いや言葉を無効化していた。わざと言葉が通じないようにしかけた。言葉のレベルをずらし、どうあってもおたがいが納得いかないようにしかけた。あたしはそういうしかけを無意識にはっていた。正直に言えばあたしはその問いに積極的に答えようとは思わないけれど、その人はおそらくそれにたいする答えを知ろうとした。でもあたしは答えなかった。答えることができなかった。あたしはあたしを愛しているからだ。
 ほんとうは、僕は自分が正しいことを知っている。自分がいちばん正しくて、他人ばかりが常に間違っているのを知っている。そして僕は間違っている他人を決して許そうとしない。「答えない」ということや「他人に話しかける」ことで、あたしはまた、ひとつひとつ醜くなっているのかもしれない。「根源的懐疑に陥っている」と言われたことがある。そうかもしれない、けれど、そうじゃないかもしれない。根源的も何もないのだ。きっと懐疑は懐疑であって、懐疑なんてどうでもいい、問題はきっと、あたしがあたしを愛しているという一点にある。ばらばらになった釘人形じゃない、あたしはあたしを愛しているという一点でもって懐疑している、懐疑しているふりをする。悩むことはあっても疑うことなんてほんとは何ひとつないのだ、あたしはあたしを愛しているんだから。
 自分を醜いと言ったり自分のエゴイズムを指摘したり女の人(子)のなかである種の書きかたをしている人があたしは大好きだけれど(そういうことを書いている男の人や男の子はわりとどうでもいい)、あたしは彼女たちが清らかで貴いと思う。自分は醜いとか自分しか愛していないとか、彼女たちはよくそういうことを言うけれど、「そんなわけないだろう」とあたしは思う。実際にあたしは彼女たちがものごとをとてもよく愛していると思う。醜いは醜いかもしれない、でも彼女たちはその醜さを含めながらやはり世界と対峙しようとしているように見えるし(世界を愛するという方法ではなく)、感情をたいせつにして生きようとしているように見える。あたしは彼女たちを尊敬しているし、ほんとに、彼女たちにはどうかこの世界で幸せになってほしいと思う。
 あたしは、詩とか、小説とか、あるいはこういう文章とか、そういうものを愛してはいない。愛する方法もわからない。だからもう、きっと、愛するとか愛さないとか、憎悪するとか憎悪しないとか、優しくするとかしないとか、そういうことではもう、ないのだ。ただたんにあたしが○○なだけだ。ばかみたいだ。ほんとにばかみたいだ。




コメント
難しくて全然意味がわかりませんでした。
【2009/03/23 10:39】 | えみこ #- | [edit]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
【2009/03/23 11:40】 | # | [edit]
管理人しかコメントを読めないんですね。がっかり・・
【2009/03/23 12:13】 | えみこ #- | [edit]
管理人しか閲覧できないコメント欄の存在意義ってなに?
【2009/03/23 12:19】 | えみこ #- | [edit]
コメントする際に「管理者にだけ表示を許可する」をチェックしなければ、見ることはできます。スパムが多いので、僕のところは僕が承認したコメントしか反映されないようになっています(なので表示されるまで時間があります)。

>難しくて全然意味がわかりませんでした。

僕もわからないですし、わかるように書いてはいないです。

>管理人しか閲覧できないコメント欄の存在意義ってなに?

人それぞれではないでしょうか。私信であったりほかの人に読まれたくないことを書いたり。
【2009/03/23 17:28】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
すみませんでした・・
ありがとう。
【2009/03/23 21:12】 | えみこ #- | [edit]
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