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あらかじめあたえられることが決定されている愛について

2009.04.03(01:20)

 たんじゅんなことがこわいから複雑なふりをするのだと思う、複雑なことであればあたしは胸を張って「わかんない」と言える。きみがあたしにとってとても特別な存在であるときあたしがきみにとってちっとも特別な存在になりえなかったとしたら、あたしは蟻から木星まで憎悪する。きみがあたしにとってたったひとりのにんげんであるとききみのまわりにたくさんのにんげんがいるとしたら、あたし、きみをふくめたたくさんのものを憎悪する。生きていくことは、きみにとっての特別になりえないことがえんえんと続くそのプロセスだ。
 だからたとえば「作家になりたい」というその言葉はあたしにとってうそっぱちだ、その言葉は「どうしておまえが作家なのに俺は作家じゃないんだよ」という嫉妬にすぎないのかもしれない。どうしておまえに詩が書けるのに俺には詩が書けないのか、あたしにはどうしても、どうしても理解できない。あたしはべつに作家になりたいと思っているわけではない。
 北島康介が出ているマクドナルドのCMを俗悪に思う。彼は「空気なんて読むな」と言う。空気を読めず北島康介のように他人に誇れるなにかを持っていない人間は何を思っているんだろうとあたしは考える、あたしにはわからない、「空気が読めないことを今の若い子たちは極端におそれすぎている」と誰かが言う。それをあたしたちの欠点のように言うな。その言葉を発することができるおまえがあたしたちを指さして欠点を指摘するな。おまえがあたしたちを殺す。
 絶対的なものや確固としたものを持ってはいないと思う。「他人は他人、自分は自分」という言葉を信じたくはない、それは強いものだけに作用する言葉だと思う。「自分は自分」と言った途端開きなおれる自信がある、あたしは逃避し、甘え、いろんなものを愛するふりをするだろう。こころがくさる。許してはいけない、ほんとは、そんなにんげんを、許してはいけない。他人の愛を見てあたしはあたしの愛のなさを知るのだ。となりのにんげんを見てあたしはいそいろとにんげんの皮をかぶるのだ。他人が詩を書くからあたしは詩を書くのだ。他人が苦悩するからあたしはあたしの苦悩を知るのだ。「自分は自分」と言うなら、せめてあたしは最初から死のう。
 三角みづ紀の「カナシヤル」を初めて読んだとき、彼女は何かに許されたがっているように思えた。懺悔しつづけているように思えた。あたしは彼女を許すことができなかった。何故なら、彼女はあたしに謝るようなことをなにひとつ、なにひとつしていないからだ。犯してもいない罪を償うことはできない。だから彼女の詩を読んだときにあたしはいったいどうしたらいいのか途方にくれて悲しくなった。もしかしたら存在しないはずの罪を償わせるための唯一のものが言葉であるかもしれないのに、彼女の詩によって、あたしの言葉は消された。
 彼女のブログを読んでいると、彼女は過剰に世界を愛そうとしているように見えてしまう。どうしてそんなに世界を愛そうとするのかわからない。あたしは彼女を敗残者だと思っている。そこまで過剰に世界を愛そうとしなければ生きていけないようにすら見える人間なんてみっともないじゃないか。みっともない。だからあたしは彼女を愛している。
 大衆を憎悪している。大衆は苦悩しないからだ。苦悩しないから大衆になれる。ある種の緊張と不安を抱えながら生きているように見える人がときどき愛おしい、あたしは自分が幸せであることを知り、その前提を踏まえた上で、「どうして彼ら彼女らが幸せになれないのか、ほんとうに理解できないでいる」。




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