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ふたりのにんげんのためのラブレター

2009.04.13(01:35)

幸せのカタチ幸せのカタチ
(2006/12/01)
三角 みづ紀

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 仮にあたしが「誰のために文章を書くのかしら?」と問われれば「敗残者のため」と答えるようになりたい、ということをここ数日ずっと考えている。誰かにとってせつじつな問題がどうしてほかの誰かにとってせつじつな問題にならないんだろうと思う。あたしはだから、あたしにとってせつじつな問題がほかの誰かにとってせつじつな問題であればいいと思う。ふふふ苦しめ苦しめ。癒したいわけでもなんでもない、だってぼくはきみじゃないもの。
 三角みづ紀「幸せのカタチ」を読んだ。順番が間違っているのだろうと思った。三角みづ紀の詩を読む前にこの本を読んだら三角みづ紀について特に何も思わなかったのかもしれないと想像する。陽射しがあって部屋の温度が上がる。どうして、どうしてなんだろう。他人のだめな部分を愛することが愛なのか、他人の良い部分を愛するのが愛なのか、ぜんぶひっくるめてあいしてるなんて嘘だ。どうしてだろう。どうしてこんなに三角みづ紀のことを愛しちゃったんだろう。三角みづ紀のせつじつさはたとえば世界を救う、なんてことはありえないけれど、そのせつじつさがせつじつさのままでこころをいっしゅんのあいだ、あるいは永続的に、ぐしゃぐしゃにするのだから、やっぱりたぶん、あたしはふりでもいいから、せつじつなままでいたいのだ。

   ◇◇◇

 村上春樹はなんにもできないにんげんのための作家だと思う、北海道に行っても事件は起こらない、直子は僕のいないところで首を吊りハツミさんも僕から遠く離れた場所で自殺する。悲しみなんてほんとはないのに、それでも、あたしは悲しまなくてはいけないのだ。空疎な言葉のなかにあたしが見つけたのはリアリティを帯びた空疎な感情だ、空疎であるように見えるその装いこそがあたしたちが見つけたリアリティだ。ほんとは悲しくなんてないのだ、悲しいふりをすることだけが悲しい。村上春樹のやっていることは悲しみをべつの言葉に置きかえる作業なのだとふいに思う。置きかえられた言葉は空疎でいて透明だ、魂のない剥製、そこには悲しみなんて最初から存在しなかったのだ。あたしが見つけるリアルはその置きかえだ、村上春樹を読んだらあたしはまた泣くのかもしれない、でも泣いているにんげんにはきちんと何かを言うべきなのかもしれない。「おまえが泣いているのはあらゆることが悲しくもなんともないからだよ」。言って殺せ。きちんと殺せ。にんげんなんだよ。聞くなよ。殺せ。




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