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善良なひとたち、花

2009.04.15(04:27)

 文章を書くということはあらゆる誤解で、たとえば、あたしがあたしの過去について書くとすると、あたしはあたしの過去を思い出ではなくノスタルジアにしてしまう。あたしがある本を読んで自分で感想を書くとする。そういうとき、だいたいあたしはその本について自分が感想を書いた部分しか覚えていなくなり、その部分をその本についての全体だと認識してしまう。でも、あたしは評論家になりたいわけではないので、べつにそれがわるいやりかただとは今のところ思っていない。
 文章というのは相互的に影響をおよぼす。文章が先に立つわけでも、書く主体であるあたしが先に立つわけでもないとあたしは思う。あたしが書いたことにたいしていちばん影響を受けているのはほんとはあたしかもしれない。あたしが何かあたしについて書くことであたしは「ああ、あたしはこういう人間なのかもしれないな。うじうじ」と思う。それはつまり「書かれたこと」というのはあたしとはほとんど関係ないことなのかもしれないという可能性の示唆だ。ほんとに重要なのは「書かれたこと」ではなく「それを書いたという行為」なのかもしれない。
 他人に興味がないとか、感情がないとか、ここ数ヶ月くらいその手のことをいろいろ書いてきたわけだけれど(書かなくてもあたしは他人からアセクシャルだと思われていたと知ったので、潜在的にはそういうことをせっせと書いていたのかもしれない)、そうやって書きつらねてきたことはまちがいなくあたしに影響をあたえている。あたしは数日前にお友達とお酒を飲んでいるときに「俺は映画に出ている女の子しか好きじゃない」と言ったけれど、たとえばそういう発言は他人から言われたこと自分で書いたことをじゅうぶんに踏まえているんだと思う(あたまのよいひとだとそこになんらかの計算をふくめるのだとおもうけれど、あたしはべつにあたまのよいにんげんではないのでなにか計算をしてそのての発言をすることはありえないのよ)。あたしがほんとはどんな人間であるかなんて誰にわかるっていうんだろう、他人から「あなたはこういう人間だ」と言われるとするならば、それがそのままそっくりその人間の性質を決定してしまえるような気すらする。
 文章は祈りであって呪いだ。自分がどういう人間になりたいかということを文章はときどき決定するし、逆に、まちがっているかもしれない人間像をその人間に撃ちこむ。あたしは特にそのどちらの性質も悪いとは思っていない。文章というのは自由になるためのひとつの手段だと思う。書いている瞬間には「書いている主体」としてのあたしが確かに存在するという世界の裏づけがあるから、書かれている主体としての「あたし」は自由でいられるのだ。「あたし」と書こうが「僕」と書こうが「俺」と書こうがほんとはなんだって関係ないのだ、ただあたしは今「僕」や「俺」で何か虚飾をつらねた文章(書かれる文章はすべて虚構であるのだから、虚構であると知るからあたしはちゃんといろんなことが書けるのであって、虚構であると知るから、この文章を読んでいる人のうちの何人かはうまい具合にあたしに騙されるのだ)を書くのが困難だと思うからあたしは「あたし」という一人称を使うわけだけれど、ほんとはただのおっさん。あたしの性質、あたしという人間も、誰かが勝手に決めればいい。あたしはそれに文句を言ったり、言わなかったり、ただそれだけのこと。
 
 ほんとに思っていることをあたしは書かないよ。
「あたしが思っているかもしれないこと・あたしが思っているように思えること」しか、あたしは書いてないよ。




コメント
私があなたと話す時、あなたの考えに寄り添いながら私自身の事を忘れてあなたに何か語る場合と、私があなたにどう思って欲しいか意識しながらあなたに何か語る場合。一方はどこかから聴こえてくる風の歌のようでそしらぬ感じ。かたっぽは私の内から漏れてくる悲鳴のよう。会話は、人と人の間で即興的に何かが私とあなたに起こる。私たちは、いつもあいまいだ。文章の場合、私に何が起きているのか、私には未だによくわからない。


【2009/04/17 08:16】 | ユタカ #- | [edit]
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