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本物の血が流れる実物の革命

2009.05.28(01:18)

1Q84(1)1Q84(1)
(2009/05/29)
村上春樹

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 某企業から内定(内々定?)をもらった。とりあえずこれで「俺就職決まらないからドクター行くわ(笑)」とか「俺マスター2年もういっかいやるわ(爆)」とかそういうネタをやらかさなくてもよくなった。でもまだもう少し就職活動は続ける。そのぶんのしわよせ(つまり俺が研究室のお仕事をぽいぽいさぼるということ)が全部友達に行く。ご、ごめん!

   ◇◇◇ 

 ここ最近「あー俺頭の具合がおかしいかもー」とずっと思っていて、いつもすやすや眠るあたしが明け方くらいまで眠れなくて、その原因というのは、就職活動ではたぶんぜんぜんなくて、夏の暑さと、あとはなかなか返ってこなかったたった一通のメールのせいだったと思う。ごめんね愛してる。

   ◇◇◇

 眠れなかったせいで「カラマーゾフの兄弟」を読みおえることができた。カラマーゾフ的な面というのは誰でも持っていて、でもあたしはほんとにそういうものに無関心なのかもしれない。たとえばそれは「俺はおまえを愛してるよ。だからおまえを殺すよ」という人間だと思うけれど、ほんとに、あたしたちは両義的なにんげんだけど、にんげんがその両義的なことをうまく話せるとはかぎらない。神の肯定と否定なんてあたしたちは無意識に両立して考えているけれど、どうしてか、二者択一的なものと受けとってしまう。「わからない」とせめて言うために、あたしは生まれてきた。「磔にされて呻いている子供のまえであたしはパイナップルの砂糖漬けを食べるんだわ」と言うリーザは気高い。子供のために「夜通し涙を流してふるえ」ている彼女は、一方でパイナップルの砂糖漬けのことが頭から離れない。何故なら、彼女はパイナップルの砂糖漬けが大好きだからだ。彼女はアリョーシャとの結婚の約束を破棄したあと、自分の指を潰した。でもやっぱりあたしには彼ら彼女らに何が起こっているのか、苦痛に呻く子供とパイナップルの砂糖漬けが両立してしまうそのことについて、何か話す言葉をろくに持ちあわせていない。

   ◇◇◇

 村上春樹「1Q84」が渋谷の本屋さんに平積みにされていた。あたし、「しばらく放っておこう」と思って100歩ほど歩いたところで、どうしても気になりくるりとひきかえし購入。30ページほど読んだ。いまのところ目次がいちばんおもしろい。
 内容には触れずに印象だけぽぽーいと書くと、メタフィクションの要素が強そう、「海辺のカフカ」の文体とはちがう感じでちょっと安心、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」寄りな気がする、春樹の文章は流暢で美しいんだと再認識、あと、村上春樹の三人称小説はさほど熱心に読んでないのでわからないのだけれど、現代小説を通りこして近代小説的な書きかたをしているように見える。ドストエフスキー、あるいはもっと昔のフローベール「ボヴァリー夫人」などの小説は、「作者が語っている」という認識が思いきり強く出ている。今回の小説だけに限った話ではないかもしれないけれど、三人称の語り口のなかに、明らかに登場人物ではない思考が入っていて、それはたぶん「アフターダーク」ほど直接的にではないけれど、意図して入れているのかもしれない。「総合小説を書きたい」と村上春樹はずっと言っていて、そういう言葉にひっかかりすぎると、最初のほうのヒットラー、カフカ、昭和天皇の話に思いきりつっかかるかもしれず、きっと、もっとナチュラルに読んだほうがよいと思う。
「カラマーゾフの兄弟」は、カラマーゾフの一家とそのほかの人間の描写がそのままロシア全土を表現する構成になっている(らしい)。かつて金原ひとみの「蛇にピアス」に対してあたしは「あれを現代の若者の風俗描写のメタファだと読むな!」と思いきりえらそうなことを言ったことがある。それはそれでべつにまちがっているわけじゃないけれど、特に正しくもない。少なくとも、個人、あるいは複数人の問題が国家、政治、社会全体などの問題に積極的に結びつけられおおきく語られることはあんまりなくなってしまった、ということはあると思う。フォービズムとか、ものすごく個人的な様式にすぎるように、あたしは思う(好き)。
 たんじゅんに、国家というものがとてもよくできていると思うため、あたしたち(すくなくともあたし)はもう革命を起こそうとは思わないし、投票にすら行かない。自分個人のことだけ考えていてもよいことにもなった。すごくしあわせ。政治的意見も持たない。あたしは次の選挙で自民党と民主党どちらが政権をとろうがどちらでもよいと思っている。心底どちらも応援していない。「あんなにやりたいやりたいと民主党が言っているんだから、いっかいくらい試しにやらせてみれば?」といつも思う。でも言うとたぶん馬鹿に思われるから、今までいっかいも言わなかった。民主党(というか鳩山さんとか小沢さん)は「政権をとることが大目標だ」と言う、まるで「東大に入ることが目標です」と言う学生みたいだ、とは思う。でもそれだけ。それ以上先には行かない。
 テレビにうつって、よくわからないことをごにょごにょ言う人に、どうやって関心を持てばいいんだろう。そういえば、あたしは福島みずほさんがしゃべっているのをたまたま近くで見たことがあるのだけれど、「おお! この人良いこと言ってるな!」と思った(内容は忘れた)。でもテレビや新聞を通して見る政治家たちをそんなに信用していない、仮に福島みずほさんがテレビに出て何か良いことをしゃべっているのを見たとしても、あたしは平気で素通りすると思う。実際に会って、会わなくとも、実際にその人がどうやってしゃべっているかがわかる程度の距離でその人の話が聞くことができれば、あたしはその人を信用するのかもしれない。だから、極端な言いかたをすれば、ほんとは内容なんてどうでもいい。誰がどんなふうに話すのか、それを確かめられる場所で何かを聞きたい。実際の人を信じられてテレビにうつっている人を信じられないのだとしたら、あたしのなかで何が起きているんだろうか、たぶん、偏見の蔓延と、想像力とコミュニケーションの欠如だ。
 実際にその人がどうやってしゃべっているのか、それを「ただ見るため」のツールとして、小説や映画は存在することが可能だとは思う。でもそれは以前たくさん書いたことをむしかえすだけでめんどうくさいから、今は書かない(ゴダールは「私は人々に何かを理解させようとしたのではなく、人々に何かを見せようとしたのです」と言った)。
 村上春樹がデタッチメントからコミットメントに移行するとき、何を書くのか、よくわからない。今の日本で書くべきことがあるのかとも思うし、もちろんあるのだろうと思うけれど、それははっきりしたかたちでは表れていない。もし今「カラマーゾフの兄弟」のような意味での総合小説(的なもの)を見たいと思うなら、たとえばジャ・ジャンクーの映画でも見ていればよいのかもしれなくて、(今日「プラットホーム」を見た。おもしろい。まるで中国全土の問題すべてが描かれているように思いこまされる)、あるいはジャ・ジャンクーじゃなくてもあたし知らないけれど中東の映画とか、うんでもあたし日本人だから、日本人の村上春樹が日本を舞台に、何をどんなふうに書くのか、やっぱり気になるにょ。




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