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村上春樹/1Q84

2009.06.11(23:08)

1Q84 BOOK 21Q84 BOOK 2
(2009/05/29)
村上春樹

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 てじな~にゃ!
 村上春樹の「1Q84」を読みおわったので他人のことを構わず全力でネタばれをする。  基本的にあたしは「BOOK1」についてはなんにも異論はないしとてもおもしろいと思うけれど「BOOK2」はぜんぜんだめだと思う。もちろん、村上春樹の小説がおもしろくないわけがないので「BOOK1」も「BOOK2」もちゃんとおもしろいのだけれど(おもしろくて朝まで読んでいた)、それでもぜんぜんだめだと思う。
 あたしは最初から読みかたを間違えて、「BOOK1」を読んでいる途中、「あ、村上春樹が園子温監督の『愛のむきだし』を書きなおしている」と思いこんで、すごく興奮して、あたし天才だったからそうだそうだそうにちがいないと思いこんで「戦争が始まるんだ!」、「戦いが始まるんだ!」と思わずさけんだけれどそんなことはなかった。
 舞城王太郎がやったことは尊いと思う。彼は愛を問いなおして小説を問いなおした。人間は愛によって生きていると急に言いだした。それは何もできない人間とそのまわりにいる人が静かに損なわれている過程を描いてきた村上春樹のカウンターのように見えた。村上春樹のやってきたことをしっかり受けとめ、そのままだと世界はどうにかなっちゃうから、そうじゃないことを描かなくてはいけない、と舞城は思っているように見える。その集大成が「ディスコ探偵水曜日」で、たぶんこれは「ねじまき鳥クロニクル」の影響をもろに受けて描かれていると思う。「ディスコ探偵水曜日」とほぼ同じ頃七尾旅人が「911 FANTASIA」で音楽の問いなおしを行った。2001年の9.11テロを受け、その前後50年、1951年から2051年までの出来事を音楽を使って語った。ロックを信じるに足る幻想だと言った。世界は確かに損なわれた。その損なわれたあとで対話の可能性を模索し、七尾旅人は音楽を使ってコミットメントしようとした。その翌年に公開されたのが園子温監督「愛のむきだし」で、世界と子供に対する圧倒的な暴力を圧倒的な愛によって強引にめちゃくちゃに解消させていくおおきな試みだったと思う。
 園子温監督「愛のむきだし」を見たとき、正直、このままではだめだと思った。この映画はあまりにおもしろすぎるけれど、舞城王太郎がやってきたことの限界をなんだか示しているように思った。だからあたしはこれから描かれるべきものを描くのは柴崎友香や岡田利規やあるいは諏訪敦彦やゴダール(今なら安川奈緒や三角みづ紀も入れてもいいかもしれないけれど)じゃないのかなあと思った。それがまちがっているかどうなのか、あたしは知らないし、間違っているとしてもそれはかまわないし、だから、とにかくちょっと考えるのをやめていた。
 2009年、「愛のむきだし」の上映の翌年に村上春樹の「1Q84 BOOK1」を読んだとき、園子温が示したその限界を越えるような作品を描こうとしているように思えて、とても興奮し、期待した。
 ただ、実際村上春樹が描きたかったのはあたしが見たかったものとはずいぶん違うものに見えた。「BOOK 2」に入ってからの天吾の動かなさは異常だし(天吾くん、ほんとに小説を書きなおすことしかしていない)、代わりに青豆が動いているわけだけれど、青豆も後半は部屋にひきこもっている。そもそも、あたしは天吾と青豆が手をとりあってさきがけのなかに特攻していくヴァイオレンスな展開を期待していた。あるいはべつに天吾と青豆でなくてもいいけれど、とにかく、「天吾と青豆的な人」がさきがけに侵入し「戦闘的な行為」をするべきだと思った。そして少女をレイプする行為は圧倒的に残虐な行為であるべきだと思った。実体だのなんだとごまかすべきではない。つばさは消えるべきではなかったし、リーダーは死を望むべきではなく、宗教の身をまとった変態性欲者であるべきだし、誰かの怒りによって殺されるべきだと思った。「べき」なんて言葉は使いたくないけれど、でも、レイプは残虐で卑劣な行為であるべきだ。
 舞城王太郎の「ディスコ探偵水曜日」も園子温「愛のむきだし」も少女のレイプが描かれるし、だからこそ、戦わなくてはいけない。「ディスコ探偵水曜日」は少女がレイプされるのを防ぐために「世界を越える」話だった。天吾はどうしただろう。天吾は父親に向かって世界の認識が変わったことを告げた。変わってしまった世界でそれでも生きていると言った。何故かは知らない。何もしていない天吾が何を感じてそう思ったのか、あたしにはよくわからなかった。世界の認識の仕方は「空気さなぎ」を通してではなく、現実的に変わりえる。「ディスコ探偵水曜日」の途中の推理合戦は世界認識の変更だ。ミステリにおける「謎解き」は「世界認識の変更」を意味している。しかし、何故か多くのミステリでは「謎解き」だけで終わり、「謎解き」=「世界認識の変更」が終わったあとその人がいったいどう生きていくのか、そこのところは描かれない。ゴダールは「未知との遭遇」について、「私が見たいものが登場するその直前で、何故か映画は終わってしまうのです」と言った。描くべき箇所がずれているという認識は得難い。ほんとうに難しい。でも現実的に、個人的な鑑賞のなかでは、それが起こりうる。
「ねじまき鳥クロニクル」では主人公が井戸から出るまで、つまり、たったひとつの行動に出るために1000ページほど費やされている。あたしはそれでいいと思う。そのあとに世界と戦ったのだから。でも「1Q84」では天吾が一歩踏みだしたところで終わってしまっている。どういうことなのか、ちっともわからない。「BOOK 2」は青豆をのぞき、ほとんど誰も動いていない。どうして動かないんだろう。「空気さなぎ」についてもけっきょく事件は起こらないし、「さきがけ」という団体の内情もほとんど明かされない。明かされるべきだった。ほんとは、誰かが誰かを憎むべきだった。
 相米慎二監督「セーラー服と機関銃」のラストで薬師丸ひろ子は見えない機関銃を街中で乱射する。彼女のやったことは正しかったかもしれない。彼女は実際に機関銃を撃ち、やくざと戦ったからだ。実際に撃ったあとで、彼女は世界という概念を撃つ。あるいは青山真治監督「冷たい血」で、主人公はラスト、カメラに向かって銃口を向ける。チェーホフの言うとおり、拳銃は発射されるべきだ。でもいつどこで誰に向けて発射されるべきか。青豆は自分に向けて発射した。でもあたしはできれば違う誰かを撃ってほしかった。
 あたしはただ自分が村上春樹にこうあってほしいと思うことがあり、それがかなえられなかったから、不満を表明した。リトル・ピープルじゃなくて、誰か実際的な暴力と戦ってほしかった。
 もちろんそれはただのわがままだ。なんかもう、わがままでいいや。




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