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やさしくてうつくしてこわくて僕らはいつも

2009.06.22(22:38)

倚りかからず倚りかからず
(1999/10)
茨木 のり子

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本文

内定をもらった。にこめ。おめでとう俺。



あとがき

 谷川俊太郎さんは世界は存在(肉体)と意味(言葉)にわけられると言った。意味はソフトウェアであり存在はハードウェアだ。ソフトウェアとしての意味は紙や声などのハードウェアの上でしか展開されない。詩には意味があろうがなかろうがどうでもいい、けれど詩とは意味が存在へ惹かれ存在に恋するそのベクトル(運動)のことではないか。詩はロマンティックであるべきだと思う。そこにあるロマンは恋だ。音楽は存在である。映像はどうか。映像は存在か。あるいは存在から意味へのベクトルか。映像は存在であるとあたしは思う。映像に文字が映されあたしがそれを見るとき文字は意味から解放される可能性を内包する。ゴダールは「字幕のある映画を見る場合、私達の多くは映画を見るのが不可能になる。私達は字幕を読みそれから画面に何が映っているかを確認するだけになる」と言った。存在としての映画の上に文字が現れるとき、存在と意味が逆転する。存在の上に意味がのるべきなのに、字幕がつくとき、意味の下に存在がぶらさがる。それは絵本という形態よりもなお醜い。何故あたしは映像でものを考えられないのか。映像でものを考えることのできない人間は存在から程遠く、存在に焦がれる。あたしが映像を見て思考するその思考対象はその映像とはいっさい関係ない。松山ケンイチが出演している映画を見て「あ、松山ケンイチだ」と思うその思考と松山ケンイチの映像は実際にはまったく関係がない。「ここに松山ケンイチがいる」とあたしが言うことはほかのなにごととも関係しない。「ここに松山ケンイチがいる」と言ったところで松山ケンイチはしかしここにはいない。何故だかあたしにはどうしてもわからないが魔法のようにぽんと松山ケンイチが現れることはない。そして松山ケンイチが現れないことを「悲劇」と呼ぶ。こんなに悲しいことが日々連続的に起こっているのにどうして人間は毎日生きていけるのかそれもわからない。松山ケンイチを現出することすらできない意味に、その程度の意味にいったいどれほどの価値があるだろうか。関係ないはずの存在と意味のあいだにあたしが横たわる。ふたぶてしい猫のように横たわる。その現象を「人間」と呼ぶことにした。あるいは「あたし」とか「俺」とか「僕」とかそう呼ぶことにした。生きていてよかった。「映画というのはすでに存在であるのにあたしはいつもそれを意味ととりちがえる。そして存在であるはずの映画は意味にとりまちがられ存在を希求する。鏡を見ろ。おまえは意味ではない。おまえは存在だ。だがその映画を見ている人間は誰もそのことに気づかない。その映画を撮っている人間ですらも気づかない」。この場合の映画は何のメタファか。映画は無条件に悲しい。映画は二度生まれると言った人がいた。「一度目は作品が生まれるとき。二度目は誰かによって見られるとき」。生まれるのは映画だけではない。映画を見るときその存在への逆光としてあたしたちが生まれる。本当のことを教えようか、何故人間は映画を見るのか、本当のことを教えようか。そうしなければ人間は自分が人間であることがわからないからだ。はじめは存在だけであった宇宙に人間が誕生し、人間は世界を存在と意味にわけた。わけてしまったあとに、人間はふと考えた。「さてそのわけた俺はいったいなんなのだ」と。神話。

 というのは全部嘘話であるけれど、

「わたしはその人が死ぬとき何が死ぬのかと考えればその人のその人が死ぬと思う」とかなんとか言った人がいて、あと「海は表面だけあればいい」とかなんとか言った人もいて、あとあと「作品よりも作品をつくる人のほうが好きだから好きな人のつくる作品は全部好き」とかなんとか言った人もいて、そんなふうに、存在にコミットメントしようとしているように見える人たちはなんなんだろうなと俺はときどき、ときどきだけれど、思うんだよ。

 三角みづ紀さんの「美代子の満開の下」という小説のなかで、人間にたいして「ただしい」とか「まちがっている」という表現が出てくる。

カナちゃんはまちがってしまってはいるが愛嬌のある顔をしている

「ももちゃんはかわいそうだね。ももちゃんは美代子じゃないから」

それは確実に白の軽自動車で、そのことだけは確実で、

三日だけ死んだひとになりたい。

ホットケーキが食べたいだなんてこの子はなんて完璧なのだろう。


 彼女は父親を探そうとするのではなく父親を断定しようとしている。「ただしい踝」という詩のなかでも「もうきみは正しい」とある人に呼びかけている。あたしは何も断定しない。一生しないかもしれない。断定は優しさだと思う。存在への呼びかけだからだ。だが同時に冷たさでもある。その人がいるそれだけで正しい彼女の世界は、あるいはその人がいないそれだけで正しくある可能性を内包しているように見える。やさしくてうつくしくてこわい世界だ。だからもうこれ以上本当はさわりたくなんてない。誰かを愛するということはそれ以外の誰かに冷たくするということではないのか。感情の差異だけを問題にするならば愛なんて幻想にすぎない。ソシュールは言語は差異の体系だと言った。感情というのが差異の体系でない保証はどこにあるのだろう。「愛」という言葉が「愛ではないもの」という言葉の置きかえでない保証がどこにあるのか。「愛」が「愛」であるための確実な方法は愛が存在となることしかない。その手段として肯定や否定、あるいは断定が提供される。その世界はひどくやさしくて、ひどくつめたい。なんでそんな世界のなかで人間が生きていけるのかあたしにはよくわからず、そのひとたちをとてもだいすきだけれどなんだかもうすごくこわいと思った。



断章

 墨谷渉さんの「歓び組合」を読んでいて、さいしょ「ぷぎゃーこれ近代小説じゃん。改行いっかいもしないで現代小説のふりしてるだけだよ!」と思ってたらやっぱりかんちがいで現代小説だった。おもしろかった。
 でもたとえば人間の悪意はこういうことだと思う。



 MMORPGの(たぶん)数万時間プレイしたデータを消されて怒りくるった少年を(たぶん)隠し撮りした映像だ。映画も小説もこういうことは描かない。



本文2

 マザーテレサは外科手術が必要な人間に包帯を巻いてまわった。
「言葉が多すぎます」と言って死んだ。




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