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7月になったらピナ・バウシュが死んでいた

2009.07.01(06:21)

 いつものとおりアルバイトは暇だから、到着したばかりの新聞を読んでいたらピナ・バウシュが死んでいた。あーあたし馬鹿だなあって思って、というのも、あたしがもういちねん早くダンスに興味を持っていたらちゃんとピナの公演を見ることができたのにって思って、思ったよりもショックを受けている自分にショックを受けていて、ピナの舞台なんて一度も見たことないけれど、ないから、「来年は日本に来るんじゃないかなあ」って言われてテンション高くなって、「よーしパパ仕事さぼってでも見にいくぞ」って思ってた矢先だから、なんだかそれってへんな気分で、べつにピナがどうとかそういう問題じゃなくて、ただ、あたしはあたしが好きなひとたちがピナピナゆってるのがなんだかいたく感動したから、主体性なんてないから、あたしは「あーじゃあ俺もピナ好きかもな」って思ってピナ見たいって思ってただそれだけだから、それだけでも、ちゃんと好きになる可能性だってあったのに、だからそれもったいないってことで、振付とか演出とかが演劇やダンスにおいてどんな役割をするのか、あたしはいつも知れないけれど、たとえばクラシックで、指揮者がその練習において楽曲をどんなふうに表現するのかという点で演奏者たちの演奏をどうまとめあげていくか、本番の前にやらなくてはいけないその作業っていうのは、たぶん、ほんとにあって、ひとりの指揮者が死ぬということはだからひとつの音楽が死ぬということで、その指揮者がなそうとした音楽はもう聴かれないということで、同じように、ピナが死んでもピナの舞台はもしかしたらやることだってあるのかもしれない、けれど、ピナがなそうとした舞台はピナが死んじゃったら実現されえないんじゃないかって思えて、あ、きれいなものが見たい、思うに、きれいなもの、あたしがその瞬間にきれいだと思える意味でのきれいなものというのはこの世界にはとても少なくて、ただあたしたちは探しかたを工夫しているだけで、きれいなものっていうのはぜんぜん、少なくて、というよりも、きれいなもの楽しいもの喜ばしいものっていうのはとても少なくて、何かふたり麻痺しあったような感覚で、きれいなもののなかにいたいって思いながら、生きてる。
「ブログなどで、『亡くなった』と書くべきところを『死んだ』という言いかたで書くひとがきらいだ」と言うひとがいた、あたしは「亡くなった」と書けばそのひとを悼んでいて「死んだ」と書いたらただのニュースにすぎないと感じているとは思わない、死んだひとを悼む行為を特に立派なことだとも思っていない、「亡くなる」という言葉に奥ゆかしさを感じるだとか、死者に対して敬意を表しているだとか、そういうことを指して「言葉の可能性を信じている」だとかは絶対言いたくない、あたしはそのひとが主張しているだろうことの逆の意味で言葉を信じたい、言葉を使いたい。




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