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それはもう関係しおわったはずだけれど

2009.07.09(06:34)

アストラル・ウィークスアストラル・ウィークス
(2008/06/25)
ヴァン・モリソン

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 だーぼっぼだーぼっぼ、話にならない。
 昨日のアルコールをまだひきずっているのか、頭が痛いうえに気持ちわるくてしかも頭が悪い。
「現代において新しい小説が書かれる意味はあるのか?」と言うひとがいたけれど、べつにあったってなくたってどっちでもいいと思う。新しく書かれた小説に興味がなければ読まなければいいし、あたしは新しく書かれた小説のいくつかには興味津津だから読む、たったそれだけのことなのに。あたしもよくやっていたわけだけれど、自分の問いを世界の問いへとすりかえてまじめぶって語るのは、いくらか傲慢な面があって、そこのところの自覚はたまにはしてみるべきだ。そうじゃないと誰かが不愉快になる。
 村上春樹の「1Q84」について、続編が出るか出ないか、あたしはべつにどうでもいい。たとえば「ベルセルク」の続編が出なかったらそれはひどいと思うけれど、春樹の「1Q84」はそういう類のものではないと思うし、出たら読むし出なかったら読まないしべつに残念でもない。2巻のある部分をあたしはぼろくそに言ったけれど、おもしろかったら手のひらを返して褒める。
「小説を読めば心が豊かになる!」
 そう言われると不愉快だと書いた。そんなものうそだからだ。「小説を読むと想像力がつくと言われるけれどそれはうそだ」と書いたことがある。小説を読んだってなんにもならないだろうしなんにもならないと言う。生きやすくなったり生きにくくなったり悲しくなったりうれしくなったりするのは小説の性質ではない。そんなものは小説と関係ないのにあたかも小説の効能のように言うのはばかげているし、きもちわるい。
「自分の読みたい文章を書いてくれるひとはほんとうに少ないから、自分で文章を書く」と言ったひとがいて、それはとてもいいことだと思う。つまりあたしには想像力がたりないのかもしれない。あたしが読みたい文章はみんなあたしのまわりのひとが書いてくれているし(太宰治さんありがとう、サリンジャーさんありがとう、舞城王太郎さんありがとう、三角みづ紀さんありがとう、ランボーさんありがとう、高橋源一郎さんありがとう、ブコウスキーさんありがとう、○○さんいつも日記を書いてくれてありがとう、××くんいつも日記書いてくれてありがとう、お礼なんて言わないけれどありがとう)、あたしが読みたい文章というのはあたしがその文章を読みおわった瞬間に発生しあるいは消えるのであって、というわけならば「読みたい文章」というのは存在自体が不可能になってしまうのだけれど、いずれにしろ、あたしは自分の読みたい文章を自分では書かないのであって、ならばならば、「自分の読みたい文章」というのはいったいどこにあるのかしらん、ということはさておいて、自分の書いた文章はいつも自分にとってだけは最良の文章だ。
 今書いているあたしの小説があたしにとっておもしろすぎる。あたしはもちろんあたしの文章がいちばん好きなわけだけれど、やはりその好きな具合には波があって(好きな範囲で大嫌いになったりする)、なんとなく今、今この瞬間があたしがその小説を生涯においていちばん好きな瞬間であることだとまじめに思うから、記念カキコしておくのだ。おもしろすぎる。泣ける。

   ◇◇◇

 三角みづ紀さんの作品を読むまえにあたしは三角みづ紀さんについての詩を書き、安川奈緒さんの作品を読みながら詩をみっつ書いた。たぶんそういうことなのだと思う。文章を書くことなんてろくなことではなくて、何故なら、それはあたしの度量がすこぶる低いからだと思うけれど、他人の文章(や存在)にいちいちけちをつけたり嫉妬したりしなくちゃいけないからで、あたりまえだけれどそんなものは忙しいし精神的に良くないのでやはりろくなことではないと思う。他人のすぐれた詩や小説や日記を読むと「どうして俺はこのひとじゃないんだろう」と本気で思ってわけがわからなくなる。どうしてその文章を書いたのは俺じゃないんだろうと思うしその事実がまったく理解できない。その事実がたまらなく不愉快になって俺もその人も死ねと思う。でも残念なことにたいていの場合俺はそのひとを愛している。
 何故文章を書くのか。それはおそらく「自分の好きな文章が自分以外の人間によって書かれる」という事実があまりにもつらすぎるからなのだと思う。その逃避として自分で文章を書き、しかもその文章は常に輝かしく、ならば当然屑でもあるので、それが「自分の好きな文章が自分以外の人間によって書かれる」という不穏な状況をつくりあげている。
 あたしは日々自分の首をゆるくゆるく絞める。すごくたのしい。すごくつらい。すごくかなしい。すごくうれしい。すごくしあわせ。どれかな。よくわからない。 

   ◇◇◇

 ということとは関係なく、「尾形亀之助詩集」が思っていたよりもほんとにほんとにすごくて困る。だいたい中也や朔太郎やゴダールや金井美恵子などを読んでいると思いだして、それはとても良い傾向であるのだよと思って、すきすきすき。このひとはたぶん、生きかたというか、存在のしかたというか、そういうものがまわりの人間とはあまりにもちがいすぎていて、ぜったいまねして書けない類の文章をぺろりと書いているように見える。こんなおっさんに興味はないけれどすごい。すき。「学識」とか「女の顔が大きい」とか「白い路」とか「毎夜月が出た」とか「毎夜月が出た」とか「毎夜月が出た」とか。すごい。


 父と母へ/尾形亀之助(冒頭部分)

 さよなら。なんとなくお気の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。



 なんでこういうことをぺろりと書いちゃうんだろうな。なんでこれを書いたのが俺じゃないんだろうな。世界はずいぶん不思議だな。

   ◇◇◇

 俺は彼女に何も言わないし何もしないことはもう永遠に確定しているけれど、俺はときどき彼女を愛しすぎているんじゃないかと思うよ。
 
   ◇◇◇

 The End of Running Away From Real!

   ◇◇◇

 あたしのゼミまであと6時間か…。
 どうしよう…。




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