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affection

2009.07.24(21:02)

 たったひとりのにんげんが書いたなんでもない文章があって、たぶん、今の俺がもっとも影響を受けたものはそれだろうなと今日思うことができた。その文章を読んで、世界を真摯に見つめることがどういうことか少しだけわかったような気持ちになった。世界を真摯に見つめるということは、世界を愛するという皮をかぶって確かに存在していると思えた。たとえばきらいなものをきらいと言ったり、許せないものを許せないと言ったり、大好きなものを大好きと言ったり、そういうことは本当に難しいことだと思う。欺瞞はあるし嫉妬はある。でもたとえば才能が確かにある人、それに溺れずにきらきらと輝いているひとをどんなふうに見ることができるのか、たったそれだけのことで人生はがらりと変わるのかもしれない。
 そういうことは誰も書いてくれなかった。あるいは書いていたのかもしれない。だけれど俺には理解できなかった。村上春樹も太宰治も高橋源一郎もサリンジャーも三角みづ紀も柴崎友香も書いてくれなかったこと、表現できなかったことを、ほとんど名前のないたったひとりのひとが書いてくれたというのは、とてもうれしいし、なんだかくすぐったくて、いとおしい。
 そういうふうに生きたい、と生まれて初めて他人に憧れることができたのだと思う。俺は決してそのひとになることはないけれど、さんざん、そのひとに擬態しようと思う。誰かをまねするほかに文章を書く方法がないように、誰かに擬態するしか生活する方法ないのかもしれない。不穏なのは、それがちっともかなしいことじゃないということ。うれしい。

   ◇◇◇

 フランツ・カフカ「城」がやっぱりおもしろい。

 この父と母の二人は、Kがはいってきたとき以来、坐っていた部屋の片隅から彼のほうへ歩いているのだが、まだとても彼のところまではこられないでいる。


 こういう文章がするっと挿入されているところに言いようのない寒気を覚える。カフカがどういうつもりでこういう文章を入れるのか、リアルを描いているのか、リアルから一歩踏みだしたところを描いているのか、ちっともわからない。カフカの描いている感覚は自分の身のまわりのすべてのものとの関係のずれだと思う。歩きかたのうまいひとにつかまっていなければ雪のなかを満足に歩けないKは、いったいどういうひとなんだろうと思う。ふたりのにんげんの区別がつかないからといっていきなり「よしおまえらふたりをひとりのにんげんとして扱うぞ」と言いだしてしまう彼はいったいどういうひとなんだろう。現実と非現実との関係がおかしい。無関係という関係のなかで本来生じないはずの関係のずれが起こっているように思えて、気持ちわるい。そういうことを描けた作家というのは、ほんとうに少ないと思った。カフカが好き。

   ◇◇◇

 後輩の友達の女の子(ぜんぜん知らないひと)に「これまじあたしの全財産なんだけれどどうしたらいい?」と言われた。十円玉と一円玉がちゃらちゃら入っていた。「身体売るしかない?」と訊かれたので「そうですね」と言った。笑った。お店においてあるピチューのフィギュアが欲しいと言うので「持っていっていいですよ」と言った。「これまじあたしの全財産なんだけれどどうしたらいい?」と言われた。「財布交換する?」。「しない」と俺は言った。おもしろいことがたくさんあるような気がした。




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