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あれは全部大人たちが金のために作った嘘だったよ

2009.07.26(18:32)

「この気持ちはいったいなんなんだろう」とか「なんで俺はこんな気持ちにならなくちゃいけないんだろう」とか思うことがよくあるけれど、そのときあたしの思っている「気持ち」は気持ちではなく、感情でもなく、もっと確固とした物質的な何かだとふいに思った。

   ◇◇◇

 土曜日はTNと六本木の国立新美術館に行き「野村仁 変化する相―時・場・身体」を見てきた。あんまりおもしろいものではなかった。同じ場所から月をずっと撮影しつづけて、その位置を音符に見たててつくった音楽、はとてもよかった。でも、たぶんあたしは「同じ場所に何年も通いつづけて写真を撮りつづける」みたいな行動に興味がないのだと思う。ジョニー・アップルシードみたいなひとにはなんとなく思うことがないではないけれど、彼は作品はつくらなかった。野村さんがいかにがんばってそこに通いつづけたとしてもそれは作品とは関係ないし、あたしとはもっと関係ない。「宇宙の調和・一体感」みたいなものにはもっと興味ない。自然は自然として見る方法を知らないし、自然を人工物を通して見る方法、人間を通して見る方法しか知らない。タルコフスキーの撮った水は自然物だけれど人工的にしかけられた水だと思う。そしてそれが今まで見たどんな水よりもきれいだったのならば、その水が好きだし、それでいいと思った。ライトがあてられた植物はけっこうきれい。色なんてかんたんにつけられるのだなと思った。かんたんにつけられるのに、多くの映画監督はなんでパラジャーノフやゴダールみたいに映画に色をつけようとしないんだろうなと思った。
 アテネ・フランセまで行ってタルコフスキー「僕の村は戦場だった」を見た。「ノスタルジア」や「ストーカー」ほどの圧倒的な力はなく、佳作としか呼びようがないけれど、それでもおもしろかった。荷台から落ちる林檎を驢馬がむしゃむしゃ食べるときの林檎のぶよぶよとした質感、鏡に映った兵士の美しさ、静かな戦場にしけた音で降ってくる弾丸(?)、湖上の反射、そして何よりも靴ひもを結ぶ仕草を横からアップでとらえたシーンがたまらないと思った。「あー今の瞬間モノクロ写真として持ってたいにゃ」と本気で思える映像は、やっぱり、それでもなかなか出会えないものだと思う。靴ひも萌え。
 御茶ノ水あたりを無駄に無駄にさまよいまくって、TNと食事。踊るインド人の話などを聞く。さいきん、なんだかわからないけれどお酒の飲みかたと食べものの食べかたがよくわからなくなってきた。すぐに酔っぱらうしすぐに気持ちわるくなったりする。この前「ヱヴァ:破」のあとYNとお酒を飲んでいたときも同じ症状に陥った気がする。啓蒙をしようと思ったけれどやめた。電車のなかでは眠れるのだけれどベッドのなかでは眠れない。どれくらい食べられるのかどのくらい食べたいのか、ちっともわからない。おかしい。
 深夜のアルバイトがあるのでそれはもうかなわない望みだけれど、規則正しい生活がしたい。働くようになったら毎日6時前に起きたいとすごく思う。

   ◇◇◇

 安川奈緒が「現在構想中のことをやるには10年かかるかもしれない」とか言っていた。ヴィクトル・エリセというひとは10年にいっかいしか映画を撮らない。
 あたしがあたしのことを考えるとき、「たぶんこれこれこうなるためには3年かかったり、5年かかったり、するんだろうな!」と思うことがあるけれど、そのあいだに何もやらないわけじゃなくて、もちろん継続的に失敗しつづけていて、あたしは作品は全部失敗作だと思うから、いっぱい失敗つづけようと思う。じっくり推敲することや10年構想を練ることによって良い作品できるとたんじゅんに信じてはいない。それはひとつの方法であると思うし、そういう方法によって良い作品ができると信じ確信しているひとはそうすればいいと思うけれど、あたしにはそういうことはできない。そういうことができるようになるためには、そういうことができるようになりたいと思ってそれの練習をしはじめてから5年かかるのかもしれない。今は作品をつくることによって作品をつくることしかわからないような気がする。

   ◇◇◇

 柴崎友香と元SUPER CARの誰かが「文藝」で対談していて、そのとき、元SUPER CARの誰かが「僕は初めて会ったひとにまず『俺の知らないおもしろい話が何かできる?』と訊くことにしている」というようなことを言っていて、あたしはこういうことをなんとかして言わないでいることができるようなにんげんになりたいと思う。
 それは保坂和志にたいして最近思っていることから来ることだと思う。彼はプー太郎的なものを礼賛していて、それは反プー太郎的なもの、まっとうに社会的とされていることへの反発だと思うけれど、その礼賛のしかたは、結局のところプー太郎的なものを「まっとうに社会的とされていること」へ祀りあげることにしかなっていないように見える。マイノリティとマジョリティの違いはあるけれど、マイノリティだからと言って権威を持たないわけではないと思うし、保坂和志が最近言っているのは権威抗争的なものに見える。「見かけ上の対立のあるところに対立は存在しない」と言ったのはヘーゲルだったかキリストだったか高橋源一郎だかわからないけれど、あたしは何かひとつの気に食わないものがあったときそれを破壊しようとするんじゃなくて、その「あたしの気に食わないもの」と「それ以外のもの」との関係性をずらしたりくずしたり変えていきたい、と思う。
 SUPER CARの誰かは自分の音楽に自信を持っているように見える。それはいいことだけれど、そのなしてきたことを踏み台にして、ほんとうにほんとうに「初めて会ったひと」に「俺の知らないおもしろい話が何かできる?」とあたりまえのように訊くことができてしまうのだとしたら、その踏み台はいったいなんなんだろうなと思う。あたしはそういうことをしないようにしたい。そういうことをしないながらべつに優れてありたい。それを、今思っている。

   ◇◇◇

 tobaccojuiceの「HEADPHONE GHOST」を買ってから「キャンディ」ばっかり聴いていて、「キャンディ」がとても良い。朝家に帰ると知らない女の子が自分の部屋で寝ていて、自分の部屋は仲間うちではラブホテルみたいなもので、それで、まあそれはそれでべつにいいけれど、その女の子のことをいろいろ歌っているうた。
 
 キャンディー分かるだろキャンディー君に全く興味がわかないんだ

 と

 キャンディー変な音楽や映画をきっと見すぎてしまったんだね
 キャンディーあれは全部大人たちが金のために作った嘘だったよ


 というところでいつも泣きそうになる。ストレートな物言いに衝撃を受けてばっかりだ。女の子は財布すら持っていなかったので小銭あげるかわりに絵を描かせるんだけれど、そのとき赤いスプレーで描いたドラえもんがすてきだからちょっとその子のこと好きになって、そういう、全く興味がわかないんだと言ったあとでそういうふうに思っていく優しさみたいなものがふわふわあってとても心地よくてやさしくてせつないから好き。歌詞だけ書いても音楽は書けない、あたしが書けるのはたぶんたぶんあたしがどう感動したかだけ、だからそれを書きたいしそれを書けているひとが好き。

 二人分かり合えるなら
 世界から悲しみなんか消え去っているよ





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