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ネピリム

2009.07.31(23:16)

インフィデルインフィデル
(2005/09/21)
ボブ・ディラン

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・コナンくんは「真実はいつもひとつ」と言っていたけれど、あたしはコナンくんではないから真実を求めることはしない。絶対的なものなんてないって思う。あるとすればそれは人間にまだ発見されていないものだと思う。世界をかたちづくる粒子は波動関数で表されるけれど、その波動関数は複素数の波だ。リアルな波ではない。

・存在している、存在していない。そういうもっとも世界にとって自明に見えることがらが、もっとも理論的な物理学の世界で揺らぎをまじえたかたちで理論化されていながら、どうしてあたしたちは、存在しているとか、存在していないとか、かんたんに言えるのか。

・実存を発見したのは誰だったっけ。実存はあったのでなく発見されたものだ。

・ひとはよく現実と虚構とわけてものを言うけれど、現実とはにんげんがつくりだしたものだ。

・「近代小説のおかげで人間は恋愛ができるようになった」と誰かが言っていた。近代小説を始原とする恋愛のやりかたが生みだされ、いつしかそれを恋愛と呼んだ。男女が昆布漁に行かずに遊園地に行くのは近代小説とその延長が産みだした方法にすぎない。この場合「男女が遊園地に行く」という行為は現実のものだけれど、その行為の存在を保証しているのは虚構だ。

・ある種の粒子は観測できないという話を聞いたことがある。「観測する」という事象は人間がその物質から発される波を見ているということで、その「波」じたいが粒子に影響をあたえ、あたしたちが観測した瞬間にはもうその粒子はべつなものに変わっている。

・それは言語でも同じことだ。

・太宰治「眉山」は、粗野で馬鹿で品のない女性がおしっこを漏らす話だ。だけれど、その粗野で馬鹿で品のない女性が実はもっとも尊い人間ということが示されている。「斜陽」において、手づかみでものを食べ庭先でおしっこをする母親こそが真の貴族だと描かれている。あたしたちが思う聖性とは反対の人間像のなかに人間の「真の美しさ」を描いた太宰は美しい。同じことはドストエフスキーやジャン・ジュネにも言える。

・「真の美しさ」は太宰らによって発見された瞬間、「真の美しさ」ではなく「一種の美しさ」になった。

・太宰以後の人間であるあたしたちがほんとうにきれいなものを見たいと思うとき、あたしたちはもう一度美しさを発見しなければいけない。

・本当のものが欲しいとは思わない。

・本当の愛が欲しいとは思わない。

・にせものの感情が欲しい。

・文学自体はなんの救いにはならない。

・ただ文学にまつわるその他のこと、文学と関係があるように見える文学とは関係ないいっさいのものごとは、救いになりえる。

・イマムラさん、それは小説なんですよ、もしかしたらそういうつもりで書いたのかもしれない、あるいは僕の小説認識が間違っているだけかもしれない、それはわからない、だけれど、かつて本当にたくさんのひとがそれを「小説だ」と言って書いてきて、そしてもっとたくさんのひとがそれを「小説だ」と言って読んできたんです、何故ならそれはもっとも小説らしい小説だからです、でも何故か知らないけれど、僕には本当にわからないのだけれど、何故かそういうものを誰も書こうとしなくなっちゃったんです、かつて小説だと言ったものを何故かたとえばあなたが日記として書いているように見えるんです、そしてたとえば女の子が書くまったく他愛もない日記を僕は文学としてとらえています、もちろん、僕が選択するある種のやりかたによって女の子の日記を「これこそが真の文学だ!」と礼賛することは表面上はやりはしないのだけれど、でも少なくともかつて書かれた小説が書かれる場所は今はすでに小説のなかにはないように見えるんです、そしてかつて書かれた小説が今小説のなかで書かれる場所を失ったとして、同時に、今書かれるべきだと思うことがらのとても重要な部分がやはり小説のなかで描かれていないとしたら、はたして、今小説のなかには何が描かれているのでしょうか、知っていますかイマムラさん、そういう文章は、そういう文章は、ね、ふん、もちろん、これはいつでもくだらないものごとです。

   ◇◇◇

 めもめもめーも
 
 ダンストリエンナーレ トーキョー 2009 ―限りなき瞬間― infinite moments

 いっこくらい見たい。安い。




コメント
こんばんは。桜井さんの言っている文学と小説がどういうものか完全にはわからないですが、私は文学や小説をひっくるめて芸術は人を生きさせてくれるものと信じたいです。白川静の世界観は人が未知なる世界をなんとしても生き抜くための呪術で満ちています。話し言葉は一瞬で消えてしまうので時間を克服するために書き言葉ができて、文字に生き抜くための希望を託して、祈ったそうです。道という字は未開の場所を通り抜くために人が首を切ってそれをかかげながら通り、歌という字は神に対しての要求だそうです。呪術は人が生き抜くためのものでそこには文字が必要です。私たちの人生は想像力によってつくられる、とオブライエンのセリフを思いだしますが、良いことも悪いことも想像力と言葉(文字)によって生み出される。「スローターハウス5」も「ニュークリアエイジ」「好き好き大好き超愛してる」もその想像力と言葉で生み出された最悪をなんとかしてその想像力と言葉で生き抜こうと、もがこうとしている気がします。(好き好きはちょっと違うけど) 現実と文学の関係は互いが影響しあって食い込みあいながらくるくる廻ってどこかに進んでいる気がして、言葉や想像力によって定義されたり、定義によって生み出されるものもあるし、それが何かの概念の発見にもなるし、事態を悪くしたり、救ったり…私は私の考えは他人の考えだし、私たちの考えも他人のもので、じゃあそもそもの考えの歴史は人が生き抜くための想像力と言葉によって生み出されたもののに影響が強いと思います。むかつく事を乗りきるために私は芸術にたよってると思います。それは直接には私を救ってくれけど私を作っている一部だし、やっぱり何かをそこからもらっている気がします。じゃないとこんなに映画や小説も読もうとは思わないんじゃないかな、と。
【2009/08/01 00:31】 | ゆう #- | [edit]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
【2009/08/01 20:49】 | # | [edit]
イマムラです。

おおう・・・
なんか大袈裟に紹介していただいて恐縮です。


まず愚直に質問に答えると、「知りません。」そもそも俺には基礎的な文学の作法がなっていないのだよな。「かつて書かれた小説」なるものが何を指すのかも、正確に理解する素地がない。

けれど、文学にしても政治にしてもビジネスにしても、かつて何が起きていて、これから何が起きるかを把握しようと努めることはきわめて重要だと思っている。だから文学に「かつて」何が起きていたのかは、そのうち教えてほしいことです。ちなみに、さらに時間軸を絞ってみると、具体的には近現代史に立ち返ることが今だいじ。というのが、今の俺のマイブーム。

同時に、桜井にここまで言わしめるということは、文章が何らかの力を持ちうるツールになる、という可能性を発掘できたという証明なのだろうか、それを俺はじゃっかん喜んでいます。
【2009/08/02 10:29】 | イマムラ リョウ #GCA3nAmE | [edit]
こんばんは。

僕も僕の言っている文学と小説がどういうのものかは完全にわかりません。わからないままものすごく適当に言っています。定義すると何も言えなくなりそうです。定義したいとも思いませんし、今のところ、定義せずに言いつづけようかと思っています。

想像力はとてもたいせつなものだと思います。
戦争が起こるのはたぶん誰かが「戦争しようぜ!」と思ったからだろうし、人間が宇宙に行けたのは誰かが「宇宙行きたい!」と思ったからだと思います。すべてを生みだしたのは言葉である、ということがどこまで正しいのかはちょっとわかりませんが(ものじたいはあったんだから、それに何かをアタッチするのが言葉である、とか)、少なくとも想像力は大事だと思います。
でもそれはそれとして、僕はただきれいなものが見たいだけだと思います。きれいなもの、自分がきれいだと思いたいもの、これがきれいなんだと錯覚されたいもの、それはタルコフスキーの映画における水であったり、三角みづ紀さんの詩のやさしさであったり、太宰の思想であったり、あるひとのものの感じかたであったりします。芸術というものにふれると価値観が変わります。芸術にふれると「芸術と呼ばれるもののなかに美しさがある」と思いこまされます。そしていったんそうなってしまった以上、なんだかんだ言って芸術的なものを求めだすような気がします。それが良いことか悪いことかは僕は知りませんが、でも少なくともそういう嗜好になっちゃったんだからしかたないとあきらめています。
僕がたぶん本当に求めているのは個人的なことです。僕は芸術によって想像力がつくとはそんなには思わないですけれど、「その想像力によってひとが導かれていく」とかそういうことには、あまり興味がありません。たとえば、自分が死んで、自分の直接の知りあいも死んでしまったあとならば、人類がどうなろうがたぶん僕はそれほど気にしないと思います。
過去には興味があるけれど、未来にはあまり興味がないと言いますか。よくわかりません。
【2009/08/02 18:27】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
返信ありがとうございます。「精神的なものが精神を隠してしまう」ってある人が言ってて、それを聞いた時、すごい自信だなと思いました。その人はまた「愛的なものが愛を隠してしまう」とも言いました。私は正直、言ってる意味はわかりましたけど身体に染み込みませんでした。たぶんその人はしっかりとした輪郭としての「愛」が見えていて、それらしくみえないもの(同情とか金とか利益とか人それぞれに違うと思いますが、というか境界内外と分けられるのか)は自分の目を曇らせるだけで排除したかったのでしょうか。たぶん桜井さんの本物の愛とか偽物の愛と通じるものがあって、愛を本物か偽物に二分する意味が人それぞれなのかな、と。私は本物のとか偽物とかはあまり意味がないと思ってて、もやもやした感情を綺麗に整理してこれは自分にとって真だとか偽だとかはやっぱりどうだかな~と思います。でも私、今文章の論理に流されてなんか思ってもないこと書いてるようで疑わしいです。なんだか筋立てて説明しようとする嘘はいっちゃいますね。でもその嘘を含めてやっぱり「私」は受け止められるし、「私」なんでしょうね。
【2009/08/03 19:18】 | ゆう #- | [edit]
レスレスです。
ありがとうございます。

> 同時に、桜井にここまで言わしめるということは、文章が何らかの力を持ちうるツールになる、という可能性を発掘できたという証明なのだろうか、それを俺はじゃっかん喜んでいます。

僕のマイブームは「ものとものとの無関係性」ですけれど、そのマイブームに乗っかりまくって考えれば、「文章が何らかの力を持ちえるツールにならなかったこと」が一度でもあったのでしょうか、と思います。

>だから文学に「かつて」何が起きていたのかは、そのうち教えてほしいことです。

「18歳から成年にしよう」と誰かが言って、誰かが「民法」と書かれた書類にペンでちょこちょこと何か書くわけです。起こった事象はそれだけなのに、何故か、それによってどこかの18歳がローンを組んだりすることができるようになるのです。でもそこで実際に起こったことは紙がインクで滲んだだけです。
あるいは、大昔、どこかの男が女に「そこのテーブルの上の林檎をとってくれないか?」と言ったのです。そこで起こったことはやはり男が口から息を吐いて空気を振動させただけなのに、女は男に林檎をとってあげるわけです。僕が最近おもしろい、あるいはもっとマイブームに乗って言えばうつくしいと思うことは、こういうことです。僕にはときどき、「その女はいくらなんでもやさしすぎるんじゃないだろうか」と思えます。
「届くはずのない言葉が届いてしまうことが問題だ」と僕は以前書きました。イマムラさんが書いた何かによって僕が何か書くということがすでに問題だと思うのです。
「あなたを愛している」と女が言うと、男は「ああ、この女は俺のことを愛しているんだな」と思うのです。そのことが、何より問題なのです。きっとそのことにうんざりしちゃったひとがいるんです。だからそのことにうんざりしちゃったひとは、「言葉の影響」を消しさろうとしました。詩人と呼ばれるひとたちでした。
詩人だけは「そこのテーブルの上の林檎をとってくれないか?」と言われたとき「あなたはそう言うけれど、でも、そういうのは、」とかなんとか言ったのです。言葉を獲得して以来、詩人がはじめて言葉の影響を消し去ろうとしたのです。それは存在への回帰です。「林檎をとってくれる?」にたいして「いや、でも、手が届かないし、」とかなんとか言うのが詩であり、ひいては文学だったのです。
「林檎をとってくれる?」→「いや、林檎食べたいわけでもないんだろ、それなのにきみってばいつも…」
というのが「かつて」文学に起こったすべてのことです。
今はテーブルの上に林檎はのっていないのです。それだけです。














冗談です、よ?
【2009/08/04 09:27】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
愛的なものは愛を隠してしまいますけれど、それはやはり「本物の愛」があるという理論ですね。あってもなくてもどっちでもいいのですけれど。
僕は僕に感情が足りないと思っているし、だから感情が欲しいと書きました。その感情は本物か贋物かなんてどうでもよくて、どうでもよいのならば、すべてその感情は贋物で、ならば僕は贋物でいいから欲しいです。

「そして彼女は真実の愛を見つけたのだった」的な映画や小説はたくさんあります。それを信じられるか信じられないかの問題はさておいて、けっきょく、それは時間的なものだと思います。「真実の愛」的なものはその瞬間だけ真実であって、どうせ2時間経ったり3日経ったり10年経ったりすればもう価値観は変わっているものだと思います。
でも何故か映画や小説ではエンディングのあと彼ら彼女らがどうなったのかは描かれません。すべての映画や小説にたりないのは続きです。「あんなものしょせんはフィクションだよ」と呼ばれてしまうのは、ものごとを描く時間が圧倒的にたりないからです。上映時間が何億年という単位ならばそれは現実になるはずです。ある瞬間美しいものは3日後には塵です。そういうこともありうるのならば「真実の」というのは「愛」への形容詞ではなくそれを感じる人間が持つべき属性だと思います。「真実の」というも形容詞を「愛」につけらないのだとしたら僕は真実の愛なんていらないし、べつにそれでいいと思います。人間ではなく人間的なものを愛せればそれだけでずいぶんまともなことだと思います。僕は僕が人間的なものを愛せているとはとても思えません。
【2009/08/06 09:51】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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