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あなたはわたしとは関係していないけれど、実は存在している、らしい。

2009.08.14(16:40)

春夏秋冬そして春 [DVD]春夏秋冬そして春 [DVD]
(2005/04/29)
キム・ギドクオ・ヨンス

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 わたしは約束をしたのだから、約束を果たさないうちは死んではいけない。だからわたしは死なないと思う。約束がなければひとはうさぎのように死ぬと思う。スケジュール帳を埋める行為はとても正しい。その醜さまでもが正しい。

   ◇◇◇

 ママが「お盆中暇ざます」と言ってクリント・イーストウッド「チェンジリング」を借りてきたのでいっしょに見た。おもしろかった。とにかくスリムな映画だと思う。誰も彼もが必要最低限のことしかしゃべらない、必要以外の台詞は「シリアルは最初から冷たいよ!」ぐらいじゃないかと思った。
 その洗練具合というのはたぶん脚本がしっかりしているからだと思う。ぜんぜん脚本を練らないで無駄なことばかりやっているゴダールなんかとはえらいちがいだ。警察のひととアンジェリーナ・ジョリーはどこかで見たような会話をするし、ふたりはどこかで見たような激昂のしかたをする。どこかで見たことがあるからわたしはそれについて深く考えずに、すらすらと物語に没頭することができる。だからこの映画はとても楽しい。
 ひどい警察はひどいし、ひどい精神科医はひどい。勇気あるアンジェリーナ・ジョリーはとても勇気がある。AはAであるということの確認作業は、Aは非Aであるということの確認作業より、たぶん楽しいんだと思う。でもわたしは「Aなんて非Aだよ!」と言われたほうがちょっとうれしくなる。
 ラスト20分は少しテンションが違った。死刑囚に求められて会いにいったアンジェリーナ・ジョリーにたいして、死刑囚は「あんたに話すことはない」と言った。そういうところはちょっと奇妙で楽しい。
 青山真治監督「EUREKA」でラスト、宮崎あおいは「犯人のひと!」と言って石を投げる。わたしはそういうのが好きなので、死刑囚にたいして、アンジェリーナ・ジョリーが祈りの言葉を唱えてあげればよかったのになあと思った。でもこの映画では犯人は誰からも祈りを唱えてもらえない。
 ラストを見て「この映画はホラーじゃないか」と思った。「希望」を口にして見つからない息子を探すアンジェリーナ・ジョリーにたいして「この女は頭がおかしいんじゃないか」と思った。どの瞬間よりも精神異常者に見えた。ばかみたいだった。

   ◇◇◇

 キム・ギドク「春夏秋冬そして春」は「チェンジリング」にくらべてだんぜん意味のわからない映画だ。和尚さんは猫の尻尾で書道を始めちゃうし、「これを全部ナイフで掘るのじゃ!」とか言いはじめちゃうし、そのあと船の上で焼身自殺をしちゃうし、もう、ぜんぜん意味がわからなくてとても楽しい。魚とか蛙に石を巻きつけて遊んでいた子供に、寝ているうちに石を巻きつけて「重いか? 魚や蛙はどう思ったか? 探しだして石をはずしてやるんだ。おまえはそのあとだ。もし彼らが死んでいたら、おまえは心のなかに一生石を抱えて生きるのだ」とトラウマ的な発言をいきなりかましたりして、ほんとうにおもしろい。何を思って監督がこんな映画を撮るのかぜんぜんわからない。これが全米やフランスやドイツで大ヒットをしたらしいのも謎だ。
 この寺院のなかでは、壁がないのに扉だけあって、壁がないのだから扉を通らなくても移動できるのだけれど、みんなわざわざ扉を開けて移動している。タルコフスキー「ノスタルジア」でもそういうシーンがあるけれど、こういうのを見ると「ああ、今俺が見ているのは映像なんだな」ということがきちんと実感できて楽しい。
 文章だと「壁がないのに扉だけあって、でも扉を通る」ということを描写できない。それをするのはたぶんほんとうに高度なテクニックが必要で、わたしにはまだそんな力はない。むりやりやるとしても、極端にわかりづらいやりかたで描くしかないと思う。「壁がないのに扉だけあって、でも扉を通る」は、説明はできるけれど描写はできない。説明をしたあとなら描写できるけれど、わたしは説明はいつでもしたくない。
 文章と映像は(たぶん)違う。映像をつくるひとは、せっかく映像をつくるんだから、文章じゃなくて映像をつくってほしいと、ときどき思う。「あなたの撮っている映像は映像じゃなくて文章ですよ」と言ってあげるひとがたりないんじゃないかと、ときどき思う。

   ◇◇◇

 橋本治は「『美しい』とは、直接的には関係ない他者を容認し肯定する言葉だ」と言っている。

   ◇◇◇

 ところであなたはとても美しい。
 あなたのものの感じかたはとても美しい。
 あなたの存在のしかたはとても美しい。
 わたしはそれを思うたびに泣きたくなる。
 あなたはわたしにとって触れえないもののように見える。
 あなたはとても美しい。




コメント
 クリント・イーストウッドの映画は「それなりおもしろい」けれど「けっきょくのところ認めたくないんだな」と思った。それはわたしの悪意だと思う。
 たぶん、わたしはクリント・イーストウッドにたいして「おまえが描いているのはけっきょくAがAであるということだけだよ。そんなこと描いて何が楽しいんだよ。それで、おまえはAがAであることだけが大切だから、カナダなんかハリボテでいいと思っているように見えるんだよ」と言いたい。だからそれは、わたしの悪意だと思う。
 こういう映画をちゃんと肯定できない、けっきょくのところ「ふん!」としか思えない、悪意にしかいきつかない、というのは、わたしを落ち着かない気持ちにさせる。とてもだめなにんげんのように感じさせる。それはとてもかなしい。
【2009/08/14 19:01】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
私も他人になら美しいと言えます。木や森や花や風景、動物とか芸術作品とかにも。私に関係ある人に美しい、好きと言うと、私とその人の関係が良くも悪くも変わってしまう。だから気軽にそういう言葉を言えないんでしょうね。私がその人と付き合いたいための、愛を求めての行為ではなしに、気軽に友人や家族にもそういうのを言えたらいいです。イーストウッドのその映画は見てないんですけど、ホラーつながりで「レクイエム・フォー・ドリーム」という映画を思い出しました。ホラーじゃないけどホラーよりこわいです。孤独と中毒と愛の話で深く考えさせられました。私は私の痛みや悲しみを忘れるために芸術や何かでごまかしていたかもしれない、と痛い所を攻められました。
【2009/08/15 01:54】 | ゆう #- | [edit]
「美しいと思うこと」と「美しいと言うこと」にいったいなんのちがいがあるのか、ちがいはあるのでしょうけれど、どういうことなのかよくわかりません。

>私は私の痛みや悲しみを忘れるために芸術や何かでごまかしていたかもしれない

だいたいのひとはそうだと思います。
芸術をやっててもそういうふうに見えないひとを「美しい」と言ったり「すごい」と言ったりするのだと思います。
【2009/08/16 13:01】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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