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わたしは昔からおっぱいになりたかった。

2009.08.16(02:36)

The Birds, the Bees & the MonkeesThe Birds, the Bees & the Monkees
(1994/09/20)
The Monkees

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 YNが夏休みをとれたというので遊ぶことにした。だけれどわたしは遊ぶってゆっても何をして遊べばいいのかいつもわからないから、「映画行こうぜ」ってゆった。映画館でわたしたちは遊んでないけど、それぞれ勝手にスクリーン見てぜんぜんちがうことを思っているだけだけど、それってすてき。
 YNはどうせ遅刻してくるだろうと予測して、映画が始まるだいぶ前の時間で待ちあわせすることにした。わたしはそのだいぶ前の時間よりもだいぶ前の時間に池袋についていて、そこからYNに電話したら、「間にあわない」と言われた。だろうねと思った。しかたないからひとつ遅い時間のチケットを買って、喫茶店で本を読んだ。
 わたしは喫茶店で「群像6月号」に載っている本谷有希子「あの子の考えることは変」を読んだ。この小説は読んでいるあいだ爆笑したくなるのをこらえて、常ににやにやしていなくちゃいけないから、そとで読むのは向かない。にやにやしているわたしはさいこうに気持ちわるいけれど、この小説はさいこうにきれい。わたしがすてきだと思うのはこういう文章だ。

「おおおおーん! おおおおおうう! おうおうおう!」
 ……日田が「悲しき怪物の叫び」と名付けたこの声を聞いている瞬間が、いまのわたしの一番大切な時間だ。寝てるあいだに本人の意識のまったくないところで叫び出してしまうなんて、嫌なことも辛いことも無意識下に無理やり沈めてるみたいで、そうしてないと現実との折り合いがつかない人みたいで、胸がしめつけられてしまう。


 あるいはこういう文章だ。

 家に着いたらとにかくやりたいことがある。部屋の灯りを全部消して、首のところがだるだるになってもいい一番大きいTシャツを着て、その中に頭まですっぽり入ってしまって、膝を抱え込むように体育座りして自分とおっぱいが混ざり合ってしまって下さい、と祈るんだ。
 わたしは昔からおっぱいになりたかった。自分の中で一番いい部分のおっぱいになりたかった。朝起きたら虫になってたザムザみたいに、わたしも目が覚めたらでかいおっぱいになっていたい。神様。


 わたしはこの文章がこの小説のなかで二番目に泣けた。いちばん泣けたところは最後のほうだ。負のグルーヴではなく正のグルーヴを得た巡谷はそんなものが幻想であること、一瞬のつながりでしかないことを知りながら、日田を妄想する。

「私、これから先もたぶん一生処女で孤独だけど、いまが生きてきていちばん寂しくないから、たぶん我慢できるよ。ほんとにありがとう、巡谷。私のそばにいてくれてありがとう。私の相手してくれてありがとう。私の話、疲れてるのにうんうん聞いてくれてありがとう。一緒に生まれてくれてありがとう……!」

「巡谷がいなかったら、私は寂しくて絶対に生きていけなかったよ……!」


 日田のこの台詞を、日田は言わない。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のビョークはうたのなかでだけは幸せだった。こわくてのぼれなかった死刑台への階段も、うたいながらならばのぼることができた。うた。巡谷は妄想をしたんじゃない。巡谷はうたをうたったんだ。
 わたしは日田に感情移入しすぎてしまったように思う。本谷有希子はにんげんがつながりえない存在であると思っているように見える。長いあいだ一緒に暮らした巡谷はその相手である日田の孤独を「わからない」と言いきった。でも巡谷はそのかわりうたをうたえた。そのうたを日田が聴くことは当然できなくて、だからそれは自己満足にすぎないんだけれど、わたしは巡谷を愛おしいと思った。巡谷はやさしいよと思った。巡谷のやさしさは誰にも気づかれないやさしさだから、やさしくないわたしくらいはちゃんと言わなくちゃいけない。巡谷はやさしいよ。うたをうたえたんだもん。わたしはこの小説を読んでたくさんのひとがうたをうたえばいいと思った。「FF9」でジタンはガーネットに「どうして助かったの?」と訊かれ、こう答えた。「助かったんじゃないさ。生きようとしたんだ。だからうたったんだ。あのうたを」。
 わたしにはうたがたりない。
 わたしは誰かに「あなたのことを好きだ」と言われてもそれをぜったいに信用しないと思う。「私はあなたを愛している」と言ったところで、「あなたは私を愛している」はあたりまえのように得られない。だから仮にわたしが愛せるものがあるとすれば「『私はあなたを愛している』と言ったときに相手も『わたしもあなたを愛してくる』と言ってくれるその可能性」だけのように思える。それはたぶん愛ではなく愛的なものだと思うし、思いやりではなくうただと思う。でもわたしは愛的なものもうたも好きでいたい。うた。
 わたしは少し前、「あの子の考えることは変」をへただと言った。でもそれはうそだった。台詞の前にいちいち名前での呼びかけが入るのは、そうしたほうが巡谷も日田もかわいいからだった。かわいい。だからそれは本谷有希子の文法だと思う。
 この小説の読後感は小説のそれではなく、「愛のむきだし」や「ヱヴァ:破」に近い。だからたぶんこれは小説ではなく映画なのだと思う。だけれど小説のようなもののかたちをしてこれよりおもしろいものを、わたしはあまり知らない。
 そう思ったところでYNがやってきた。「おまえの電話で起きたよ」と言った。だろうねと思った。わたしたちは細田守「サマーウォーズ」を見た。8月15日にわたしがこの「戦争映画」を見ることは、わたしが唯一戦争に社会的意義を持ちコミットメントした瞬間だと思う。たぶんもうしない。
「玉音放送なんて聞こえなかった」と山本道子という詩人は言った。「ノイズだらけで、何を言っているのかさっぱりわからなかった」。戦争は終わるものではなく終わらされるものだとして、玉音放送はひとびとに終わりをもたらさなかった。だとしたら、どうやってひとびとは戦争が終わったことを認識したんだろう。戦争は実は終わっていないと思うことは不自然ではないと思う。でも、何故か誰も今玉音放送を流そうとしない。玉音放送やそれに類するものがなければ、孤島でひとりサヴァイヴする人間だって平気でいる。ひとは玉音放送がなければ戦争の終結を認識できない。
「サマーウォーズ」は「戦争映画」でありながら同時に「玉音放送」ではなかっただろうか。60年前の人たちにこの映画を見せ、「どうだい、現代の戦争はこんなにもくだらないんだぜ」と言ってやることはほんとうにできないんだろうか。
「サマーウォーズ」の戦争では誰も傷つかない。そして、戦争の相手すらいない。なのに、ここでは平然と戦争が行われている。核の危機がある。20人のにんげんが4億ものにんげんと戦わなくてはいけない。地球全土の問題なのに、相手がいない。戦争相手がいないのに戦争を行ってしまった人間はしかたないから米国に戦争責任を押しつけている。そして無事それをなしえたので、恋人たちは安全にキスをする。
 がんばった少年は恋人を得た。がんばった少女は世界中の協力を得た。そして協力を得た少女は勝つことができた。つながることができるという圧倒的な前提のなかで戦争が行われ、それが身内のなかで完結する。戦争をすることと少女の愛を獲得することはなんの関係もないのに、それがあっさりつながっている。にょきにょきつながる。
「サマーウォーズ」は「戦争映画」だけれど「誰かと戦争をすること」だけは巧妙に避けている。戦争相手がいないからだ。現代では、たぶん、相手がいなくても戦争できちゃうんだろうと思った。だからこの映画はちゃんと戦争映画だし、ちゃんとくだらないし、ちゃんと泣けるし、ちゃんとおもしろい。でもこの監督はたぶんうたをうたう必要はないと思っているだろうから、うただけは、うたわれない。
 YNは映画が終わった瞬間「ヒロインがババア…」と言った。
 YNと飲んだ。隣の団体客に爆弾をしかけるための作戦をたてたり「エヴァ」の謎についての話を聞いたり剣心の梅毒の話を聞いたりグレンラガンを薦められたりした。途中でへんな女のひとがやってきて手品をはじめ、そのあとに煙草をくれた。「なにあれ」と言った。「『エヴァ旧・劇場版』ってハッピーエンドだよね?」とわたしが言ったらYNは「うん」と言った。YNは今日もトマトを残し、ウーロンハイしか飲まなかった。「今のパーティはクラウドとシドとティファだ」と言った。「列車を20秒でとめた」とも言った。「ティファ最強」と言った。
 今日はそういう日だった。




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