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忘れ去られることを目指して

2009.08.16(20:51)

葬儀 (河出文庫)葬儀 (河出文庫)
(2003/02)
ジャン ジュネ

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 最近熱心に「もの」の感想を書いているのだけれど、それは特にわたしが書きたいからではなくて、ただ、「もの」がとてもおもしろいものばかりなのがいけない。いらいら。犬も歩けば棒に当たるように、わたしでも歩けば「もの」にあたる。幸運なのか不幸なのか、ちっともわからない。おもしろい本なんて全部消えて、しまえ。

 彼の死体を食い平らげ、私を愛してくれたかげがえのない愛人を身内に蔵して、いま、私は自分におじけづいている。私は彼の墓場だ。大地は虚しい。死に絶えたのだ。陰茎も果樹園もいまでは私の口から生える。つまり彼の口から。ぱっくり開いた私の胸をかぐわせ。一本の李の木がその静寂をふくらませる。彼の眼から、たるんで眼瞼の下へ瞳が溶けて流れた眼窩から、鉢の群れが飛び立つ。市街戦の銃弾に斃れた若者を食らうのは、若い勇士を平らげるのは、容易なわざではない。ひとはだれしも太陽にひかれる。私の唇は血まみれだ、そして指も。歯で私は肉を食いちぎった。普通なら、死体は血を流さない、きみのはちがう。

 神様が血まみれで降ってきて「おい、きみにたったひとり誰かの文章をあげるよ」と言われたらわたしはジャン・ジュネの文章をもらう。文章はどうせ捨てるのだけれど、一瞬でもいいから欲しいのはジャン・ジュネの文章だ。わたしはジャン・ジュネのようなことを書こうとは思わないけれど、ジャン・ジュネのような文章が欲しい。
「葬儀」はまったく意味がわからない。今まで三人称で語られていたのがいきなり一人称で語られはじめたりするので、誰が誰と何をやっているのか、わたしの能力ではちっとも理解できない。ジュネは語ることをしたいとだけ思っているように見える。だから、わたしには何がなんだかわからない。その文章は文章でありながらもう文章じゃないので、わたしは、それを読むふりをして眺めほうっとしているしかない。

 疲れはて、汗をたらし、まっさおな顔で、彼は猫を引きおろし、ズックの袋におしこんで、その口をとじた。渾身のちからをこめて、槌をふるい、その奇怪な、不可思議な、哀訴するかたまりの上からなぐりつけた。猫は生きていた。頭をたたきつぶしたと思ったとき、リトンはまだピクピクふるえている獣を取り出した。さいごに彼は前にお話しした壁の釘にそれをゆわえつけ、切りきざみにかかった。仕事はひまどった。空腹が、一瞬消えていたが、またリトンの腹の中へ引っ返した。両腿を切り取って、シチュー鍋のなかに入れて煮だしたとき、猫はまだ温かみがあり、体から湯気が立っていた。四肢を切り取った遺体と、手袋のように裏返しにされた血まみれの皮とを前にして、彼はほとんど生のままの、塩がなかったために味のない幾きれかの肉を食べた、そしてその日以来、リトンは自分の内部に一匹の猫がいて、ちょうど昔の貴婦人の服の上の金糸で刺繍された動物のように、彼の肉体に、もっと正確にいえば彼の下腹に烙印を押してしまったことを知ったのだった。

 リトンは猫を食べた真夜中に腹痛になり、下腹部の猫に祈る。そして夜が明けると、対独協力軍に志願する。
 猫はもちろん殴っちゃいけないし、四肢を切っちゃいけないし、シチュー鍋に入れちゃいけないし、食べてはいけない。けれど、リトンのこの行為とそれ以後の行動は夕焼けのように美しい。それはジュネがリトンを美しいと思っているからだと思う。わたしはジュネみたいに男色家でも泥棒でもないけれど、それでもジュネがリトンを見るそのやりかたはとても美しいと思う。
 
 ジュネは終身刑を宣告されたけれど、サルトル、コクトー、ジッドなどの嘆願書がフランス大統領に提出されたことにより、特別に恩赦を受ける。その後アメリカの雑誌のインタビューで「今後の人生の方向は?」と問われたとき、彼はこう答えた。
「忘れ去られることを目指して」




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