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彼女の王国

2009.08.18(15:13)

サマリア [DVD]サマリア [DVD]
(2005/09/23)
クァク・チミン; ハン・ヨルム; イ・オル

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 わたしは彼女のことを「フラニーみたいだ」と言ったことがある。どうしてわたしがそんなことを大真面目に言ったのか、さっき、わかったような気がした。夜だった。
 わたしは性善説や性悪説というものにほとんど興味を持っていないと思う。だけれど、性善説とは「他者や世界を憎悪しない」ことではないし、性悪説とは「他者を積極的に信頼したり関係を持ったりしない」ことではないと思っている。否定と否定で記すことしかできないこのふたつは、それでもイコールではないのだと思う。そのふたつの違いを訊かれればわたしは「わからない」と答えるしかない。それでも、性善説をとって世界を眺めているように見えるその眼差しは美しい。
 彼女に描かれる人間が美しいなら、人間だけではなく、蝉の死骸で遊ぶ猫や、コメディドラマや、人を傷つけるために訪れる池袋や、悪い線路が美しいなら、わたしはそれを描いた彼女が美しいのだと思う。
 わたしがわたしを美しくないと思う理由は、たとえば、わたしが「映画のなかの美しい月を見たあとに本物の月を見て美しいと言う」人間だからだ。わたしには、彼女は「本物の月を見たあとで映画のなかの月を見て美しいと言える」ように見える。わたしにはおそらくそれができていない。わたしにとって現実は物語の上に構築されている。だけれど彼女は現実の上に物語を構築しそこを生きているように見える。「現実ではなく物語の上を生きる」というのは否定的な言葉ではない。彼女はあるいはロマンティストかもしれない。だけれど、ほんとうにロマンティストな人間なんてほとんどいないと思う。ひとは誰でも物語を生きようとする。そっちのほうが楽しく、そして美しいからだ。だけれどひとは物語を生きられない。物語を生きたいと思う現実しか生きられない。たぶん、それはひとが現実を物語の上につくっているからだと思う。この世界で彼女だけが、物語を現実の上につくっているように見える。わたしはそのつくりかたをもうずっと知らない。それは彼女の王国だ。スピッツがうたったように、それはほとんどありふれたものによって建築されたのかもしれない。しかし、小瓶につめられた塩のようにきらきらと輝くそれは、ふれることを許されるかのようにやさしく、わたしはそれを眺めうっとりする。

(この文章はひとりを含む三人以上の人間に捧げられている。)

   ◇◇◇

 というわけで、管城さんと庭園美術館に行ってきた。彼女は猫の尻尾をまるめたものをふりまわしていた。
 庭園美術館「ステッチ・バイ・ステッチ」はとてもきれい。手塚愛子さんの「落ちる絵」は前面から見ると「ふいーん」としか思えないけれど、裏面から見ると糸があっという間に立体になってすごい迫力。すごいきれい。だまし絵よりもよっぽどだまされた気持ち。いちばん期待していった秋山さやかさんはやっぱりところどころ好き。彼女は地図上を自分で歩いたところをちくちく刺繍しているのだけれど、たとえば、そこであまった(?)糸をどうするか、だいたいの場合地図をはみだした下にだらんとぶらさったり結びつけられたりしていて、そういうのを見るのが楽しいし、勇ましくて好き。竹村京さんの作品は「meeting point」もよいけれど、それより「あの頃そこには水があった」や「あなたを明るしてあげたい」のほうがもっとよかった。スタンドやシャワーヘッドに糸をぐるぐる巻きつけてあるだけの作品。だけれどそれだけですごくきれいに見えるから不思議。管城さんが「苦手」だと言っていた清川あさみさんの作品がわたしはいっとう好きで、たとえば「Complex-heart」は作品の横にたって視線をずらしていくと赤色がぴかぴかいろんな具合に光ってたいそうきれい。「Dream time」もすごくよかった。おんなしものを見ていてもだいぶちがうものを見ているんだなあと思えて楽しい。
 ユーロスペースまで行き、チェコの人形アニメ、イジー・バルタ監督の「屋根裏のポムネンカ」を見る。なんだか異様におもしろかった。出てくる人形が基本全部かわいくないし、だいたい、ヒロインのポムネンカからしてかわいくない、でもそのかわいくない人形がたいしてかわいくない具合に動いているのがとてもかわいすぎてたいへんなことになっていた。出てくるお料理も全部まずそう。スープみたいな歯磨き粉、歯磨き粉みたいなスープ。狭い場所にポムネンカを閉じこめて上から灰を落とし「掃除しろ!」と言う最悪に陰湿ないじめ。かわいいからさらってきたのになんでそんなことさせるのかちっともわからない。人間の女の子が出てくるシーンだけ何故か哀愁が漂うその具合も不思議。おもしろい。
 渋谷ぶらぶら適当なお店に入ってお話。全力で酔っていたせいか何を話したのか全力で覚えていないけれど、熊が人間をパンチ等で惨殺する映像を見せられたり、ガンダムが風で倒れるという話をしたり、女の子を監禁した話をしたり、サラダ味はドレッシング味だという話をしたり、いかに痛くないように死ぬかの話をしたように思う。そして、わたしは生茶パンダ先生がくわえているのはネギだと思いこんでいたけれど、あれはどう考えてもネギではない。ただし笹でもない。生茶葉だった。わたし魔法が、解けたよ。

   ◇◇◇

 生茶パンダ先生のブログが衝撃的におもしろい。クロールしてるのに死んでるようにしか見えない。

   ◇◇◇

セリーヌ「なしくずしの死」

「『HUNTER×HUNTER』のナックルが文才を得て一人称で書いたような小説」だと思った。電車のなかであまりのことに笑いそうになった。「だまれ屑ども!」と言うようなテンションの文体のくせにびっこの犬を見つけると用事をほっぽりだして治療しにいく。もう絶対笑わそうとしてる。


キム・ギドク「サマリア」

 ハン・ヨルム見たさだったけれど開始20分であっというまに死ぬ。かわいい女の子同士が裸で洗いっこしたりキスしたりとやりたいほうだい、「花のアリス」を越えている。キム・ギドクの映画は基本的に会話がない映画だけれど、この映画でも、援助交際する娘にたいして、お父さんは話しかけない。相手の男には積極的にコミットメントするのに、娘にはしない。するのは、相手の男を殺してしまったあとだ。父親は絶対に間違っていると思うけれど、それは不愉快ではなく、人間は絶対間違えるんだと思う。そんなに絶望的な終わりに見えないのが不思議。


イ・チャンドン「シークレット・サンシャイン」 
 
 どうしてももういっかい見たくて借りてきた。おもしろい。息子を誘拐された母親が、知りあいの男に助けを求めに家まで行くけれど、その男は家で全力でカラオケをやっていてどうしても中まで入れないというシーンがある。そういう異常なシチュエーションのなかで高まっていく現実が怖い。高められすぎた現実はやがて神へと行きつくけれど、わたしはべつにこれがキリスト教批判の映画だとは思っていない。ラストシーン、切った髪が風に飛ばされていくそれだけであたたかな希望を感じることができるそのすがすがしさのほうが、もっともっと大事で、この映画大好き。誘拐殺人犯の娘が「おひさしぶりです」とチャン・ドヨンに話しかけるシーンが何故か異様に胸にしみた。チャン・ドヨンってほんとにきれい。




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