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ちゃんと伝える

2009.08.28(11:03)

Dub OrbitsDub Orbits
(2008/07/16)
Naruyoshi Kikuchi Dub Sextet

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 8月27日はTNと一緒に東京都美術館「トリノ・エジプト展」に行った。以前、恵比寿の写真美術館で「写真の歴史」的な展示を見たときも思ったけれど、つくづくわたしは資料に興味がないのだと思った。石版を見ても、きれいではないかぎり、わたしには資料だとしか思えないし、もちろんわたしは学者ではないから資料になんてちっとも興味はないし、どこをどう楽しんでいいのかわからなかった。たぶん、楽しみかたを知らないのだと思う。来ている子供たちが小像を見て「ねーこれなかに何が入っているのー?」と全力でさけんでいるのがおもしろかった。
 もちろん、きれいなものもあって、「オシリス神をかたどった王の巨像頭部」はすごかったし、ひとのかたちをした棺は全般的にとてもきれいだった。あとミイラはすごい。子供のミイラと大人のミイラがひとつずつ展示されていたけれど、包帯やその汚れ具合が「かっこうつけて巻いているんじゃないの?」と思える具合にかっこうよくて、つまり、ミイラちょうかっこうよい。ミイラを見るためにでも行く価値はあると思った。
 TNは「3000年も前のものが見られるんだぜ。感動するじゃん」と言っていたけれど、わたしはそういうのにいっさい感動しないのだと思った。3000年前のきたないものよりも50年前のきれいなものが好きだと思う。

   ◇◇◇

「野球を見にいく」というTNとわかれてわたしは渋谷へ向かい、「言霊の匣」の雪ノ下さんとお会いして少しお話する。以前、イマムラさんと「社会と文学」についてのやりとりをしていたとき、イマムラさんがわたしのことを指して「このひととの立ち位置との違いが俺の迷いをふっきる」とかマンガみたいな熱い台詞を吐いていたけれど、「こういうことかなあ」とちょっと思った。たとえば「本を売る」ということについてわたしはぜんぜんちっともまったく考えていないし、興味もない。たぶん、世のなかには「本を売る」ことあるいは「ものを売る」ということを得意とするひと、好きなひとがいて、ほんとうにはわたしは「本を売る」ということはそういうことが好きなひとがやればいいとしか思っていない。これは、学生・社会人、あるいは小説が生活においてせつじつに関係しているか・していないかの典型的な対立関係として存在しているだけかもしれないけれど。
 小説において必要なこと・必要ではないことという話もした。わたしはたとえばカフカが好きだ。カフカのすごいところは、その小説にその小説において必要ではないことしか書かれていないように見えるところだと思う。そしてその逆に、必要なことだけを描写したらクリント・イーストウッド「チェンジリング」のようになると思う。たとえば「チェンジリング」では、刑事が子供から衝撃的な話を聴く場面がある。このとき、刑事の持っている煙草は吸われないまま灰になって、長い灰の柱が地面にすとんと落ちる。もちろんこれは「今まで子供の話をまじめに聴いていなかった刑事がこの話に夢中になっている」ことを示している。「だからこの煙草は示唆であってメタファでしかない」とわたしなら言ってしまう。「ここに煙草が映っている。だけれど、それはほかのものごとを表すものでしかないなら、ほんとうのほんとうには、ここには煙草は映ってはいない」とわたしなら言ってしまう。「クリント・イーストウッドは煙草をカメラに映すことができない」と言う。
 もちろん、映画において「煙草をカメラに映すこと」以外にもたくさんたくさん重要なことがあって、わたしにはよくわからないけれど、それが評価されているからイーストウッドは評価されているのだと思う。けれど、たぶんわたしがいちばん気にするのは「煙草がカメラに映っているとき煙草はカメラに映っているのだろうか、それとも映っていないのだろうか」という点だと思う。それが「必要なことだけを書く」、「必要ではないことだけを書く」という点とどこまで密接に関わってくるかはわからないけれど、やはりわたしは必要なことよりも必要ではないことをいかに描くかにおおきな興味がある。もちろん、それはそのひとがどういう作品を描きたいか、どういう作品を描かなくてはいけないか、によるのだと思う。

   ◇◇◇

「育児…」という言葉を残した雪ノ下さんと別れ、わたしは有楽町まで行き、園子温監督「ちゃんと伝える」を見る。「園子温という監督は、実は、映画を撮れないひとなんじゃないだろうか」と思った。わたしは「愛のむきだし」と「紀子の食卓」しか見ていないけれど、このふたつを見たとき、「ヴィジュアルノベルゲームだ」と思った。ヴィジュアルノベルゲームではたいていかわいい女の子の絵がはっつけてある。園子温の映画ではそのかわりに映像がはっつけてあるだけじゃないかと思った。だからわたしはこのふたつの映画で泣けたのだと思う。それは、新海誠の映画で泣けるのとだいたい同じ理由なのだと思う。「愛のむきだし」、「紀子の食卓」、そして新海誠の映画は基本的にナレーション主体で語られる。
(以前、「映画のポケット」というイベントに出たとき新海誠「秒速5センチメートル」を紹介して、「これは映画のくせに映像が主体じゃない。文章が、小説が主体だ。村上春樹的なナレーションに映像がくっついているだけだ」と言ったことがあると思う。わたしはたぶんその真逆の映画としてパラジャーノフ「ざくろの色」を挙げた。ちなみに、どっちの映画もすごくおもしろい)
 園子温の映像は新海誠の風景美を基本的に踏襲していると思うけれど、そこに「手ぶれ」や「必要以上のアップ」がくわわっていて、たぶん、これがとても効果的なのだと思う。ナレーションを多用し、その背景として「手ぶれ」や「必要以上のアップ」を用いたイメージヴィデオみたいな映像を延々と流す、基本的に「愛のむきだし」や「紀子の食卓」はそういう映画で、それはびっくりするくらいに成功していたのだと思う。
「ちゃんと伝える」では、特にタイトルが出る以前、そういう手法をいっさい捨てて、普通に撮っている。普通に撮ると、びっくりするくらいにつまらない。序盤の母親と息子の会話、息子と恋人の会話は「おままごと」にしか見えない(わざとかもしれないけれど)。「ちゃんと伝える」の家族の会話は「紀子の食卓」で演じられた「擬似家族」の会話と酷似している。わたしにはそう見えた。「おままごと」しているようにしか見えない家族や恋人や「ちゃんと伝える」、「ちゃんと伝える」と言いあっている様は滑稽に見えるけれど、仮に園子温が意図的に「おままごと」っぽくしているのだとしたら、「ちゃんと伝える」は皮肉だと思う。
 タイトルが出たあとはそれなりにおもしろくて、伊藤歩の声としゃべりかたはかわいいのでそこはよかったけれど、これではちゃんと伝わらないと思う。そして、この映画において園子温は「伝える」ことが大事でそれが「観客に伝わっているかどうか」は気にしていないように見えた。
 ここ2ヶ月くらい煙草を吸っていた。この映画は癌についての映画で、「ああ、煙草を吸ったら癌になりやすいんだよなあ」と思って、「なんか煙草もういいや」と思った。いちばん重要なことはちゃんと伝わった。だからこの映画はほんとはいい映画かもしれない。
 煙草のかわりに、なんか、煙がもっくもっく必要以上に出るアロマ的なものが欲しい。




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