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女子高生しか存在しない世界

2009.08.30(20:40)

GAMEGAME
(2008/04/16)
Perfume

商品詳細を見る

 8/29はイマムラさんと紅姫さんが内定祝いをしてくれる、というので、東京、横浜へ。とりあえずひとり有楽町の高橋コレクション日比谷まで行き「「neoneo展 Part1[男子]」ネオネオ・ボーイズは草食系?」を見る。お客さんはわたしひとりだった。いっぱいいてもとてもこまるけれど、ひとりきりでも微妙にこまる。小西紀行さんの「無題」もよかったけれど、たんじゅんにいちばんよかったのは梅津庸一さんの「フロレアル」。美少年がきらきら装飾されてベッドの上に横たわっている絵、でも美少女じゃなくて美少年なので、よく見ると足などには毛がきちんと生えていて、そういう面もあわせてきれいなのかもしれない。こういうのを見ていると、現代の絵画というのは「現代アート」というところにすべて収めないと、まともに評価される場所なんてないの?と思う。

   ◇◇◇

 桜木町まで移動して、紅姫さんとイマムラさんと合流した。イマムラさんは缶コーヒーを飲んでいて紅姫さんはおにぎりを食べていた。イマムラさんは「あのさ、サプライズ的なものとか、なんにも用意してないからね!」と言っていたけれど、だいじょうぶ、されてもこまる。「おまえを雇う企業がかわいそうだ」とも言っていた。わたしもそう思った。
 横浜美術館で「フランス絵画19世紀」を見る。「何故こんなに混んでいるんだ!」と思ったら、もう展覧会の終わり間近だったのがよくなかったのかもしれない。フランス絵画はもちろんフランス絵画としてとってもきれいで、全部すごいのだけれど、橋本治の本と同じで、全部すごいので何がすごいのか途中からぜんぜんわからなくなってくる。すべてのすごさがあらゆる意味でたんじゅんに見えてくる。そしてたぶん、ルノワールやマネが展示してあったいちばん最後の章がよかったのは、その「すごさ」から少し脱却しているように見えたからかもしれない。新古典主義、ロマン主義、アカデミズムという流れにわたしはさっぱり興味がないし、説明も読まなかったのでついにわからずじまいだったけれど、そういう部分の総体として見れば、たぶんもっともっとおもしろかったのだと思う。
 アンリ・レーマン「預言者エレミア」の額の皺やジャック=ルイ・ダヴィッド「パトロクロス」の背中など、問答無用にいいものはやっぱりいい。
 ラファエル・コラン「フロレアル(花月)」に個人的にはびっくりした。たまたま、午前中に見た梅津庸一さんの「フロレアル」がコランのパロディだということがわかったからだ。こういう偶然はとても好き。現代の絵画だとたぶん、パロディというのは普通に行われていて、たとえば会田誠なんかそれはもうたくさんのパロディになっている(らしい)けれど、わたしは元ネタをひとつも知らない。梅津さんがコランのパロディをしている、というのは本当に偶然知れたことで、元ネタを知っていても知らなくても、つまらない作品はつまらないしおもしろい作品はおもしろいと思うし、わたしはべつにそんなに絵画に熱心なわけではないから「元ネタちゃんと知ろう!」なんてちっとも思わないけれど、それでも、たんじゅんな「知識」がたまには役に立つこともあるんだなあと感じた稀有な瞬間だった。
 それはともかく今回いちばん衝撃だったのは、常設展の松井冬子「世界中の子と友達になれる」だった。わたしが日本画の美しさを発見したのは加山又造が最初だ。日本画は西洋画と比べればどこかべたっとしたイメージがあって好きになれなかったし興味もなかったけれど、加山又造を見てべたべたのなかにとんでもない儚さを埋めこむことができると感じたし、逆にすかすかが特徴の水墨画にも純粋な美しさを発見できた。
 松井冬子さんの絵は女の子のいろんな意味での歪み具合がさいこうだと思う。イメージやモチーフ、つまり花、蜂、血染めの指先、裸足、乳母車(?)はたんじゅんでともすれば陳腐に見えそうだけれど、統一的な色調と馬鹿みたいな欠落感がその絵の存在を支えていると思う。欠落が存在を支えている、というのは逆説的かもしれない。この絵からなんの希望も伝わってこないかもしれない。でも、欠落が存在を支えるという矛盾を抱えたままこの絵が存在する、というおそらくの事実がひとつの強さや証だと思えるほど、この絵のありかたは美しいと思う。
 ぜんぜん関係ないけれど、この女の子をもうちょっと倒すと三角みづ紀さんの歌いかたになる。どことなく三角みづ紀さんに似ているじゃないか、とさっき思った。
 これはもっと全然関係ないけれど、イマムラさんに「なんであれ、ああいうタイトルなんだろうね?」と訊かれたとき「子っていうのは蜂のことなんじゃないですか」と答えたような気がする。わたしはすごく適当なことを言った。たぶん、ぜったい、ちがう。というよりも、これはわたしの考えかただけれど、この手のタイトルの意味を絵のなかにうつっているものに直接的に求めようとするとあまりよい結果にはならないかもしれないと思う。タイトルには「ただその作品がその作品であることを示すための外部的な記号」や「作品の一部」などさまざまな要素があると思う。「ただその作品がその作品であることを示すための外部的な記号」というのはゴダールが言っていた「シナリオ・脚本の定義」とほぼ重なっていて、つまり「タイトルと脚本は同じものでしかないんだな」とわたしは今思った、の、だ、けれど、そういう話は置いておいて、わたしは「作品の一部」になっているように見えるタイトルのほうが好きだ。たとえばブランクーシ「空間の鳥」を見ていると、このフォルムがあってこのタイトルという感じがするし、このタイトルがあってこのフォルムという感じがして、タイトルと作品が同じ質量でもってひっぱりあっているように見える。理想的なタイトルのつけかたのひとつだと思う。もっとも、タイトルはそうたんじゅんじゃない。ディキンスンは自分の詩に番号しかつけていないけれど、ディキンスンの場合「ディキンスンの○○番はいいよね!」とクラシックにくわしいひとふうに言ったほうがストイックに響いてかっこういいのかもしれない、と思う(誰にも通じないと思うけど)。迂回した。松井冬子の「世界中の子と友達になれる」というタイトルはタイトルでありひとつの文章であって、その絵が描かれた蜂や乳母車、あるいは一塗りと同じ尺度で持って測られたほうがより美しく見えると思うよ、ということがわたしは書きたかった。

   ◇◇◇

 カフェで小休止(紅姫さんはグラビアの話をして、イマムラさんは女子高生だけの世界の話をして、わたしは窓のそとの道を宮崎あおいが通るのを待っていた。何故か宮崎あおいは通らなかった。わたしは足フェチだとはひとことも言っていないのに「あなたは足フェチですよね?」と言われた。そして宮崎あおいは通らなかった)したのち、新宿まで移動してお酒を飲む。ビールにつられたひとがいたのでビールを飲んだ。わたしもビールを飲んだ。ビールにつられたひとは「俺はビールを俺のものにしたい」と言っていた。わたしはそうは思わなかった。紅姫さんは彼氏の話をして、わたしが煙草を吸うたびにだめだしをしていた。「1Q84」についての話をした。「2巻の天吾の章は全否定です」と言ったらおおむね同意されたような気がした。わたしにはふかえりのかわいさがわからない。紅姫さんは「胸の描写をしたのが許せない」(意訳)と言い、それはわたしにはわからないことではなかった。イマムラさんは「ふかえりの記者会見の胸の描写だけで俺はもう…」(意訳)と言い、それもわからないことではないような気がしたけれどたぶんわからないことだろうと思った。
「ヱヴァ:破」についてのイマムラさんの渚カヲル論がおもしろかった。わたしはカヲルくんにほとんど何の興味もないのだけれど、ようやく、小指の皮いちまいくらいの興味が湧いた。わたしは「メタ構造の外側にいる人間には興味がない」と、あらゆるものごとがそのひとことで解決してしまうくらいよいこと(自己採点)を言った。もちろん、あらゆるものごとがひとことで解決されてしまうことはよいことではないけれど。
 居酒屋さんを追いだされたあと、村上春樹「ノルウェイの森」などに出てくることで有名な「DUG」(オリジナルではないらしいけれど)につれていってもらう。そういえばイマムラさんと会ったときに最初につれていってもらったお店も三島由紀夫や寺山修司らが通っていたことで有名な「どん底」(あとで調べたら金子光晴も…)だった。そういうことがほんとはどういうことなのかわたしにはよくわからないけれど、たぶん、とてもいいことをされているのだと思う。
「何故文章を書くのか?」と訊かれたとき、「暇だから」とか「それ以外にやることがないから」と答えるようにずっとしていた。昨日もそうやって答えた。でも、なんとなく、もうそういう答えかたはやめようかなと思った。ほぼ同じ質問に「たんじゅんに楽しいから」と答えてくれたひとがいるけれど、わたしはそのひとがとても正しくすてきだと思う。「何故登るのだ?」。「そこに山があるからだ」。そういう問答は例外なく好き。でも、ある作家は「わたしは白紙のほうが好きだ」と言っている。わたしはそういうひともたぶん好きなのだと思う。音楽家が「わたしは沈黙が好きだ」と言ったらわたしはそのひとが好きだと思う。
「何かを考える時間がないほうが幸せかもしれない」とイマムラさんは言ったけれど、それはもちろん何かひとつあきらめたあとの段階での幸せだ。「もちろんどの段階であっても幸せになることはたまらなくうれしいことだ。だけれど、それでもわたしは生きるうえでは高みを目指したい」ということをわたしはもちろん言わないし高みなんて目指さないのだけれど。妥協とは幸せのことだ。でも幸せとは妥協のことじゃない。ひとによっては。

   ◇◇◇

 イマムラさんから借りた村上春樹「夜のくもざる」を返そうと思って持ってきたけれど返すのを忘れた。どうでもいいやと思った。何故わたしが「夜のくもざる」なんか借りていたのかといえば、わたしとイマムラさんがある問題について話しあっていたとき、「ここにこの問題についての俺のレスポンスが書いてある」と言って貸してくれたからだった。「この本に答えがすべて書いてある」などと言って本を貸してくれるひとはマンガや小説のなかや40年前の学生運動のなかにしかいないと思っていたけれど、いたので、びっくりした。
 わたしはイマムラさんにごはんを食べさせてもらうことによってかろうじて生きながらえているのだけれど、毎度毎度ほんとに申しわけないので、初任給が出たらsushiをわたしのお金で食べます。わたしは初任給とか、内定式とか、入社式とか、ボーナスとか、会社にまつわるあらゆる言葉は都市伝説だと思っているけれど、奇跡的にいろいろなものが手に入ったら、o-suhsiを食べます。

   ◇◇◇

 家に帰ったら鍵が閉まっていた。母親を電話で叩きおこして鍵を開けてもらう。母親は「おまえが家にいないことに気づかなかったよ…」とぼそりとつぶやき、のしのし階段をのぼり、寝室に消えていった。

   ◇◇◇
 
 今年もまた選挙に行かなかった。今年の選挙はきっと歴史的なものなのに行かなかった。わたしの街ではへんな車がまわり、「貴重な一票を大切にしましょう」と言っていた。きちょうないっぴょうをたいせつにしましょう。へんな日本語だと思う。あまりにも美しくない日本語はきらいだ。T・S・エリオットは「わたしは投票以外の政治活動をしたことはいっさいない」と言っていたけれど、わたしは投票すらしたことがない。いっかいも。

   ◇◇◇

 攻めてるイマムラさんが自分のブログで「桜井晴也は攻めてない。」と書いた。安心した。




コメント
私も渚カヲル君にさして興味はない方です。「あ、シンちゃん(TVアニメ版「NANA」の)だー」と映画館で叫びたくなったくらいです。
ただ、アスカの名が「式波」に変更されたこととマリの姓が「イラストリアス」だということにはドキッとしました。以前のアスカは旧帝国海軍の中型空母(ミッドウェーで「赤城」と共に沈没)の艦名から由来する名を持っていました。「式波」は「綾波」と同じく駆逐艦名(漢字は変えてますが)。で、「イラストリアス」はWW2でイタリア軍をいじめまくった英軍空母の名前です(沈んでいません)。
つまり、「〈破〉」で変更されたアスカの人格の一部がマリに引き継がれ、アスカが「沈められる」(精神崩壊する)という役割から解放されたことを意味するのでは・・・と想像しているのです。マリは・・・「中破」ぐらいではないかと・・・。
【2009/09/05 21:49】 | 上田洋一 #- | [edit]
>カヲル君

「一話だけでてきていきなり死んだホモをなんでみんなあんなに好きなんだ!?」と思うひとがやっぱりいるみたいで、メタレベル云々の話以前なんだと思います。もっとからめば興味を持てたのかもしれないのに。

「ヱヴァ:破」、アスカ出てきて速攻沈んだ気がしないでもないのですけれど(笑)、
精神崩壊するにしてもしないにしても、なんだか、
だいぶかわいそうな役割です。
マリにはもっと興味ないのですが、
みんなマリをどう思っているのか気になります。
【2009/09/08 08:46】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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